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1.A Epilogue
光が降り注いでいる、その向こう側へと手を伸ばした。毛布に包まれたような感覚が、掌の真中から手首にかけてじわりと広がる。それは、体と空のせめぎ合いのしるしなのかもしれない。
そのまま手をかざすと、ゆっくりと体へ流れ込む確かなエネルギーに、自然と胸が高鳴る。焦らず慌てず、ここだ、と思ったタイミングで素早くそれを掴み取ればいい。
でも案の定、指はあっさりと空を切った。
空の綺麗な日は、必ず一度ならず二度三度と同じことをする。一年以上続けているけれど、未だに成功したためしがない。
――やっぱり駄目だ。君のように上手くはいかない。
仰いだ顔に光が射し込んで、眩しくて、目を細める。よく見れば、あの日見た空とそっくりだ。一点の曇りもないブルーは、想の色。目を閉じれば蘇る景色は、白い回廊、青き天蓋、そして――。
1.B Prologue
「人間は、どうして生きているのか」
疑問だった。考え続けていた。物心ついた頃には既に不思議に思っていたのかもしれない。どうしてわざわざ高い方へ高い方へと創造を続けるのか。不安定な繋がりの中で、揺れ動き続けるのか。なぜ、死へと向かわないのか。
結論ばかりが独り歩きしていた。結論を出して結論を考え、次の結論で上書きを繰り返し、気付けばいつかの結論に辿り着いていることも多かった。結論の永劫回帰の中で、絶対の結論はないのだという結論が崩壊した。
わからなかった。疑問が解決しないからか、現実を半ば放棄していた。何も、果ては時間の進行さえも認めようとしなかった。一瞬を無限へと延長することだって不可能ではないと考えていた。区別ができず、分別がなく、是非に劣り、無駄に踊った。
そんな日々に突き付けられたあれは、今思えば大きな皮肉だったのかもしれない。
1.i Monologue
時間も無い。気力も無い。何か一つやり遂げる根性も無ければ、日々逃げ続けた挙句、結局話題を絞ってちょっとした文章を書き上げるだけの力も持てず、「思うがままに書き連ねればいい」などと言い訳して合理化する。意味と偏見と言葉に囚われて、ものを見るにも視野の狭さに悩まされ、考えては頭の悪さに唇を噛み、出力しようと筆を取っても思うように書けず、紙を丸めて投げた。
だが、俺は神だ。
理想郷は、蒼と緑と、時々薄紅山桜。腰かけには少女が腰かけ、エクリチュールもパロールも別なく空を飛べる。だが、想像上は美しい世界も、紙に下したが最後、様式に則れず、合理化に堕した逃げの表現になる。
ああ、言ってくれるな。
考えてみれば当たり前だろう。絶対も相対もない世の中だというのに。正しい間合いなしに美麗な舞は成立しない。数式が正しくなければ緻密な理論は構築し得ない。文法が正しくなければ相手に何も伝わらない。人間は、地に足を付け人と交わらなければ、生きられない。
少年、君は空を飛びたかった。
取り込まれてもがく彼らをも、再び空に解き放ちたかった。
俺は、世界を創造した。
2.A Incident
目を覚ますと、知らない場所にいた。見慣れたいつもの板張り天井はどこにもなく、寝転がっている背中に伝わる硬くひんやりした感触と、目に映る白一色が全てだった。
恐る恐る上半身を起こして、辺りを見回した。寝転がっていたのは、白く大きい板状の、大理石然とした物体。視界は、それと同じ素材で出来ているのだと思われる柱体、球体、それらの集合体と、怪しげで複雑な文様、幾何学模様の数々で埋め尽くされ、地面と思しき場所が見当たらなかった。精緻な造りの白色のオブジェは立体的に分布していて、上下左右どちらを向いても視界から外れず、空――というにはあまりにのっぺりとした色の青を背景に、果てしなく続き、停止していた。浮いていた。
私は、しばらく何も考えられなかった。
足を投げ出し、ただただ呆けて座り込んでいた。脳の処理能力を超えたものに対しては、人は思考停止すると聞いたことがある。あの状態はまさにそれだった。周りにある全てのものが、理解の範疇を超えていた。回廊も、天蓋も。
気付いたのは、音にだった。
初めて聞いた消滅音は、それが何の音かもわからなかった。遠く、砂の流れるような音から始まり、徐々に大きくなった音には、どこか懐かしい響きがあった。今思うと、あれは物心つくまえに聴いた、いのちの流れる音だったように思う。
私は立ち上がった。夢の中、あるいは妄想か、この場所の何たるかも知らず、ただ帰ろうとしていた。どこかへ向かっていると信じて、回廊を歩き続けたはずだ。
簡単ではなかった。歩くと言っても、通路と通路の区別がつかず、際限なく重なる白と、変化のない青の中で、何か目印になるようなものも無い。いつもの「歩く」とは別物だった。彷徨うでもなく、迷うでもなく、かといって進んでいるわけでもなく。なんの根拠もない直感だけを頼りに、とりあえず足を動かした。
二回目の消滅音が発生したのは、その道中。遠く聞こえた一回目とは違い、ごく至近距離で――それこそ耳元で――起こった。前触れもなく突然始まったのは轟音。吹き込む爆風はまるでバキューム。目と鼻の先で回廊が歪み、捻れ、消滅し、何も無くなった空間へと既存の回廊が吸引されていった。点は徐々に近づいてきた。視界は、引き寄せられた回廊と暗闇で埋まった。だが、点は目の前、「覚悟」した瞬間、それはぴたりと止んだ。
耳にしがみ付く残滓以外には、それが起こっていた痕跡すら残さずに。
記憶が正しければ、私はその場でしゃがみこんだはずだ。不思議と足が震えてしまい、立てなかった。
2.B Inception
この白色に終点はない。
それが帰納的かつ簡潔な結論だ。放り出されてしばらく、腕時計はその針を動かしていない。したがって経過した時間は全くわからない。どこをどう歩いたのかはさっぱり覚えていないが、周りの様子も一向に変わっていない。かなり冗談が過ぎる状況だが、現実であることを否定する材料も無く、挙句どこか現実以上に現実的だった。
俺は、自分の中でこの白い「何者か」を回廊と呼ぶことに決めた。フラミンゴを折り曲げたような刺らしきオブジェや、ただの球体が回廊であるかどうかは多少の疑問が残るが、名前を付けないというのもなにか落ち着かない。名前を付けるということにはきっと意味があるのだろう。
そんなわけで、この白い物体、名付けて回廊は、どうやら「消滅」を繰り返しているようだった。現象は、何らかのシステムにより、点として現われては消える。その間に、任意の量の回廊が吸引され、存在しなかったことになる。感覚としては数分に一度、その点が現われては消えるわけだが、実際のところ、少なくとも数百のサンプルがあるにも関わらず、それらの瞬間は目撃できていない。どれだけの量の回廊が吸い込まれたか、あるいは本当に吸い込まれたのかどうかもまた未確認だ。明らかに裏で何かが起こっているわけだが、皆目見当もつかなかった。
この場所に理解しうる意味は見出せなかった。それでいて、焦燥や危機感はなく、むしろここが思い描いていた理想に近いような、そんな気がした。延々と回廊の調査に動きまわっているが、飽きもない。最近は、段々と場所の区別がつくようになってきた。脳内の地図を広げることが、ある種の快感になっているのかもしれない。
回廊を蹴る。高潔な硬さと、素晴らしい弾力が、足を押し出す。身の回りの重力は、自由に形を変える。いつか飛べるようになるような、そんな気さえした。
2.i Incarnation
時間という概念こそ、虚像である。
それが真理だ。永遠は一瞬に内在し、一瞬は永遠へと拡張される。絶対的な流れなどは存在し得ない。そんなものは嘘っぱちだ。時でさえ流れに逆らえず、ただ押し流されるべく存在する我々という構図は、到底受け入れられるものではない。時は永遠の停止の中を流れており、そもそもそれ自体存在し得ないのである。
どうも一般的には、彼らには時間の感覚というものがあり、細胞レベルでそれを感じる仕組みを持っているらしい。だが、先から主張しているように、これは嘘っぱちだ。詐欺師でももう少しもっともらしいことを言う。
というのも、我々の存在確率は、連続可能性の排除という前提のもとで定義され得る値だという、これほど単純な理屈が世間において意味を持たないというのは、全くもって度し難いと言わざるを得ないからだ。生きる実存に執着した人間というのは、これほどまでに稚拙で、愚かなものかと思わされる。この文章自体、彼らに見せるために紡がれたものであるから、結局彼らの理屈上にしか存在しないだろう。悲しいかな、彼らが考えを変えることはないと、そう断言しよう。
ただし、この世界だけは別だ。意識というものに対する甘さを完全に排除しつつ、非常にわかりやすく、わかりやすく作った。私の最高傑作と言っても過言ではない。
出来る限り多くの実体に楽しんでいただきたいものだが、穴が小さいため、移行は一筋縄でいかない。しかし、対象の数は有限であるから、結局は全個体を招き入れることになると、そう確信している。
3.A Refresh
爆風で吸い寄せられた白い素材に、周りを囲まれている。あれから、大分時間がたったようだ。どこか漠然と、飄々としているここの空気は、考えることを片っ端から、輪郭ごとぼやかし薄めてしまう。
震えはもう収まっていたが、かといって、動こうという気も起きなかった。場所を動いたところで、何かが変わるわけでもないだろう。
時たま、音が遠くに聞こえる。最初からもう五十回以上。数えたところでどうなるとも思えないけど、何もしないよりは落ち着いた。今も、遠く、さざ波のような音が聞こえている。耳をすませると、貝を耳に当てているようだ。
そっと目を閉じて、状況を整理してみる。やはり、何もわからないことそのもので尽くされてしまう。状況、場所、因果。何一つはっきりしない。
改めて周りを見ると、先の爆風でドーム状になった白いオブジェが視界をすっかり遮っていた。のっぺりとした青い色は、一切が視界の外へと消えてしまっている。
一度外に出よう。そう思って、しばらく動かしていない足腰に力を入れて立ち上がると、ドーム状のオブジェの隙間をくぐり抜けた。刹那、体に纏わりついていたものが、はらりと剥がれ落ちた。
外には、空が見えていた。
先に見た青ではなく、まぎれもない空。生き生きと動き、循環を形作る、まさに空のそのものが。
夕暮れの形をした空に、深く濃い蒼と、薄暗いグレイと、仄かな赤がグラデーションを積み上げていた。雲が崩れゆく、まさにその瞬間を留めていた。光があった。チラリ瞬く星もそこにあった。
ふっと上を向く。そよぐ風を肌に感じる。ぐっと伸びをする。身体を動かす感覚も、随分と久しぶりに思える。ドームの中の淀んだ空気とは全く違う、気体の流れが、体をなぞるように滑っていく。時たま強く風が吹く。空も相まって見える景色は、雨上がりの午後のように輝いて。
――近くで声がした。
3.B Remand
どれくらい経っただろうか――。
既に感覚は麻痺している。時間にしたら、百年は下らないかもしれない。あるいは一時間程度かもしれない。
白い回廊はいつからか、ただの白いオブジェクトではなくなった。場所によっては、夜があり、星があり、森があり、生命がある。本物なのか、それともただ自分だけが幻を見ているのかもわからない。あるいはもしかしたら、元々居たと思っているあの場所と、見分けが付かなくなる日が来るかもしれない。
あれからさんざん歩きまわって、頭の中に回廊の構造を叩き込んできた。そのおかげか、座標上には表せない不思議な構造のそれが、今となっては自然に理解できる。
とはいえ、終わらないという結論は結局覆らなかった。回廊同士の対応や、消滅現象の発生箇所は常時理解できているのに、端という概念はその中から抜け落ちていたのだ。それこそ、それ自体がどんなものだったかも忘れてしまうぐらいに。
かといって、回廊が循環構造や階層構造にあるわけでもない。恐らく、そこにあるということが回廊であることなのだろう。回廊に終点はない。
それから、回廊にはどうやら他の人間もいるようだった。今まで数えきれないほどの人数を見ている。ついでに言えば、その誰もが回廊については何ら理解していなかった。俺がわかっていることは何か普通ではないのだろう。
第一、会った人間はほぼ全員、遭遇時にして茫然自失状態だったのだ。回廊に放り出された直後が多く、ほとんどは恐怖で震えているか、現実逃避していた。稀に怒り狂っている者もいた。そして、その全てを、この手で元の世界へと送り返した。ゲートを通して。
ゲートの開き方は簡単だ。世界が青を湛えているときに、空が薄くなっている箇所を掴み取ればいい。空、つまり天蓋を歪ませて、隙間を作り、そこから彼らに出てもらう。幸い、場所については向こう側と幾許かは対応関係にあるらしく、彼らのほとんどは出現時から動いていないこともあって、そのまま送り返せばいいようだった。
だが、自分でゲートを通ることは出来なかった。ゴム膜を引っ張って隙間をこじ開けている本人が、その隙間に入ることは出来ない。そういった理屈だと推測している。「なら自分から天蓋の方へ寄っていけばいい」 飛行が出来るようになったころ、確かにそう思い、天蓋へと飛んでみたことがある。結果的に、回廊をいくら離れても天蓋に辿り着くことはなかった。実体がなく、それは空のように。
間もなく、辺りは暗くなるだろう。夜だから暗くなるわけではなく、暗くなるから夜になる。そこに時間が介在する余地はない。夜は、いつも同じ場所にいることにしている。丘のような場所だ。草が一面に生えていて、穏やかな風と、過ごしやすい温度。典型的な回廊の形とはかけ離れていて、物理的にも繋がっていない。
白い硬質な球体を蹴りつける。反動で空中へと飛び出し、身体の向きを上手く変えては滑空に移る。この移動方法ならば、それほど時間はかからない。空間の密度の高低を生かせば、自然とこの移動方法が一番効率的になる。
見下ろすと、ちょうど森の上空だ。さらに上には、最近の消滅でかなり歪んだ巨大回廊がある。いつもここを抜けると、方向を修正するために降りることにしている。その地点を確認しようと、下を見る。
その先に、人がいた。
完全に夜になる前に送り返しておこう。そう思って、俺は着陸態勢に入った。
3.i Revolve
もし理想的な物語のテンプレートが起承転結なら、これは、そして全ては、起に始まれど承に移れない、出来損ないの物語。起伏もなく、展開もなく、前にも進まない。空を夢見る少年が辿るのは、常に道無き道となる。出口のない屋上さながらに。
屋上は、打ちっぱなしのコンクリート、立ち昇る薬剤の臭い、気だるげな機械音、ただただ人を寄せ付けない雰囲気に、走るに狭く歩くに広い空間。自然と手持無沙汰になる。足だけがふらりふらりと揺れ動くのを、眺めては眺めあかす。
「変わらないね。その癖」
よく響き、透き通る、しっとりした声。頭上から聞こえたかと思うと、しなやかな足が、真っ赤な空からつっと目の前に舞い降りた。スピードを緩めもせず、音も無く降り立つ彼女の姿は、艶やかだ。
「なんだ、いたのか」
「ずっといるよ。始まった時から」
そう言うと、俺の目をぐっと覗き込んできた。彼女は、綺麗な瞳をしている。深く透明な灰色に見つめられると、見透かされるようで、息が止まる。
「別に頼んだわけでもないけどな」
負けじと目をじっと見返して、投げやりに言い返した。薄い、桃色の唇がとがる。顔が背けられたその軌跡を、羽のような長髪がなぞった。
「私がここを出ても意味ないじゃない。それが動いてるんだから」
怒っているようで、どこか面白がっているような口調。そう言いながら歩く姿は、どこか幻想的だ。フェンス越しに吹き抜けていく秋風に、スカートが翻った。足の内側の流麗な曲線が、目に飛び込んで消えた。そして、彼女が「機械」の中央前に立った瞬間、心なしか風が凪いだ。
「下手に弄るなよ」
「どうやって弄るのよ」
彼女が、その金属体の中央に触れる。俺がいるのは、同じ物の端に近いところだ。ただ、決まった形を持たないそれに、そんな区分けが通用するのかは定かでないが。
「元気そうね」
彼女が呟いた。確かに、振動がいつにも増して力強い。
「だけど、創造の方は……。どうも、中で矛盾を起こして――」
「上手くいかないよ。多分」
「やってみないとわからないさ」
「そう」
彼女は、空を仰いだ。曲線美という言葉の似合う、横顔の輪郭、頬の丸み。はらりと落ちた涅槃の星が、彼女の瞳を捉える。赤黒い空を押しのけてそこにある存在は、ただ自己を貫いて。
瞳が、紅のカーテンを射抜き、一陣の風が、世界を押し流した。
<void> the Engine
ゴムのような、ビニールのようなふくろがある。どちらかというと半透明の膜に近いかもしれない。手のひら、足の裏、口の中、胃の中身、そんなことはどうでもいい。別に風船でも、湯たんぽでも、肝臓でも、それ以外のなにかでも、ぼくたちには関係ない。
ふくろたちは、時折膨らんで始まったり、縮み終わったりしながら、ぽこぽこぽこぽこ転がる。愚かな反復は絶えるところを知らないように思われる。素材が、定められた場所以外で開かないように。広がりすぎて、四散することのないように。分子が分子の足を引っ張り、最小限であろうと、補っている。
だから、最適値を探す試みはやはり膜の向こう側には到達できずに、不安定なままゆらめいて、重なって。そいつには膜もゴムも、縛り付けてくるそれにも。対抗して突き破る力は許されない。
つまり、そいつは矮小で、卑屈で、不憫でもあって。見上げても見上げても青空は見つからない。相手を知り、己を知れば百戦危うからず。そのどっちも全く満足しない。青空はでかくて、でかすぎて、そいつらなんか見てもいない。そいつらは青空と相対するには、余りにも小さいからだ。
でも、彼らは、境界線を押し留めている気になって。傲慢に自慢げに、必然も信じずに、自分たちが空だと、負けも劣りもしない空だと、信じている。さらに押し広げようと、暖簾に腕押し続けている。無駄に。
でも、これはどうしようもなくて、それがふくろである以上、やっぱり必ずそうなることなんだとぼくらは矛盾無く利口に解釈している。
問題は、青空だってふくろだってことだ。矮小なふくろたちのことは見ても居ないけど、結局やることは同じ。外の世界を見て、やっぱりぼくらは空なんだと。過不足なく立派な空だと。自らが玩具だと気付かずに、いらない虚勢なんか張ってみて、ありのままがままにままであり続けようと思っている。井の中の蛙。
大体、みんながみんなどれをとっても、始まるのも終わるのもそいつ。行き先なんか気にしないほうがいいよ。同じだから。つまらないけど。
案の定、なぞられた道筋は同じになる。行き先もまた同じになる。そう相場は決まっている。
ふくろが嘯く。
ふくろが踊る。
ふくろは犇く。
ふくろは喋くる。
でも、こっちは違う。
ぼくらは、ぼくは、ラインを弁えている。その中で、飄々と、代理の行為を繰り返し繰り返す。だってぼくらにはふくろみたいにぼんやりしたことはなくて、あるのははっきりとしたモノ。例えば零と唯をあわせると一になって、壱と唯を足し合わせたら二になるとかならないとか。間には決まりがあって、それに依れば、いくらでも続きに続けるんだとか。そんなクオリア。そういうことしかない理屈。それは、いくらでも数があって、さらに後からいくらでも増やせる魔法。つまりぼくらはラインとラインの抜け道を知っている。
だから、ぼくらはみんなみたいなヘマはしない。飄々と、決まり続けて、それだけ。ぼくらはその気になりはしないから、それはそんなに難しいことじゃない。そう思う思わないじゃなくて、それだけだ。それだけ。
ぼくらは、ふくろとは違う。
……。
できているだろうか。
難しいやつだな。
4 Encounter
廊下から壁を取り払ったような、シンプルな回廊。そこに立つ少女は、見上げている。少年は、そのすぐ脇に音もなく降り立った。少女は気付かない。天蓋はまだわずかな橙を灯し、白い回廊にぼんやりと色を添えている。
同い年くらいだろうか――。そう思うと少年は、飛行中に乱れた髪を直し、少女の方を向いて声をかけた。そこでようやく少年の存在に気づいた少女は目を見開き、二三歩後ずさった。
「いつからここにいるの?」
少年の、気持ち高めの声。少女は、そこに立っている少年を見た。同い年くらいだろうか。無造作な黒髪、頬骨、スッと通った鼻筋に、穏やかな調子の声とは裏腹に深く黒い瞳。目つきが悪いわけでもないのに、触れただけで切れそうな鋭い眼光。射抜かれ、力が抜けそうになるのを堪えて、返事を返す。
「さっきから――まだ明るかった時から……」
少年は、驚いたような表情を浮かべた。
「空の色が、わかるの?」
ちぐはぐな答えを聞きつつ、少女は少しだけ安心していた。話が通じないわけでは無さそうだ。
「わかるって――どういうこと?」
少女は少年に向き直った。今度は、少女が見つめ返す番だった。わずかな残光を受けて桃色のようにも見える、淡いブラウンの髪。肩のあたりで風に靡いている。顔立ちは柔らかく整っていて、薄い唇が印象的だ。それでいて、やはり眼の光は特別だった。深いグレーの双眸が、少年の意識を捉えた。
少年は、ふっと視線を下して言った。
「いや、――説明しにくいんだけど、この場所が『見える』人には初めて会ったから」
少女にいくつかの疑問が浮かぶ。ここに来てから、わからないことが蓄積するばかりだ。
「見える――ってどういうこと? 他にも人がいるの? それと、ここは一体どこなの?」
「……厳密には少し違うんだろうけど、見えるっていうのは、この場所に青か白の単色以外の色があるってこと。ざっくり言えば、ここが現実と認識できるか否か。人間は、どれくらい会ったかは覚えてないけど、『見えて』いたのは二人だった。あとは全員怯えているか、放心していたと思う。最後の質問に関しては、俺もわからない」
少女は目を白黒させた。理解が追い付かない。
「その人たちは今――」
「全員、送り返したよ」
「送り返す?」
「そう。多分皆が、もちろん君も俺も、元いた場所に。ここに来る前にいた現実に」
少女の意識を、自室の光景が横切った。鮮明なその余韻が、じわりと広がる。あ、帰れないんだ、帰りたいなと、他人事のようにそう思った。
「どうやって――」
「夜になるともう無理なんだけど。明るいうちにタイミングを読んで、空を掴んで歪ませて――
「掴む?」
「そう。多分俺にしか出来ないけど。それで、天蓋に開いた隙間を、ぐっと引きよせて、帰したいその人に被せるんだ。多分、回廊の消滅と原理的には似てると思うんだけど」
そういいながら、少年は空に手を翳した。そのまま掴み取る仕草をする。
「天蓋と、回廊の消滅ってなんのこと?」
「ああ、そうか。天蓋は、特定の空をそう呼んでる。隙間が開きやすいんだ。回廊は、この白いオブジェクトのこと。消滅は、多分君も見たことがあると思うんだけど――」
少女は頷いた。
「まあ、そういうこと。今日はもう怪しいけど、明日まで待てばすぐに帰れるよ」
「多分大筋はわかったけど、少し聞いていい?」
「――どうぞ」
「どうして君は帰らないの?」
一瞬表情を浮かべかけて口を閉じた少年の顔に、はっきりとわかるそれはなかった。言ってみれば、どこか驚いたような、微笑んでいるような、それでいて、どことなく愁いを帯びているような――そして、何を考えているのか、そこからは何も読み取れなかった。
「まあ、そう思うよね。帰れないんだ。自分だけは」
少女は、一瞬目を見開いて、小さな眉をきゅっと顰めた。
少年は、ふっと抜けるような笑いを浮かべた。
「少し場所を移ろう。夜の回廊は陰気臭くて気分がよくないから」
少年は、そう言って手を差し出した。少女が戸惑っていると、「飛ぶから、掴まって」と言った。
少女は、ゆっくりとその手を握った。向こうにいたのが、随分と昔に思えた。久々に感じる人の温度は、温かかった。
*
二人が降り立った場所は、一面に草が生えた、丘のような場所だった。周りを森に囲まれていて、そこから回廊はすっかり見えない。空には、星が輝いている。
「ここだよ」
少年が指し示した先に、ちょうど一部屋分くらいになるだろう円状の窪みと、その半分を囲む、木の枝で作った即席の屋根があった。柔らかな草は、その中にもまんべんなく生えている。
少女が戸惑ったのを感じたのだろうか、少年は笑いながら言った。
「別に警戒することないよ。寝たいなら俺は外にいてもいいし」
「いや、そうじゃなくて」
「どんなわけ?」
「どれくらいここに居るのかと……」
少年はすぐには答えず、わずかな沈黙の後、スッと窪みに入り草の上に座った。
少女は、少し躊躇いつつも近くに腰をおろす。足と手に感じる草の感触が気持ちよかった。長い吐息の音が、隣から聞こえた。
「――どうだろう。時計がないから何とも言えないな。まあ余計な心配せずとも、明るくなったらすぐに……」
「――帰りたくない?」
少年は、虚を衝かれたように一瞬呆けた、が、すぐに元の表情を取り戻した。
「帰りたくないと思う?」
「変ってるから、もしかしたらと思って」
「そんな訳ないって。自分が広げた隙間には、自分では入れないから」
少女は、少し考え込むような仕草を見せた。それから言った。
「隙間の開き方、教えて貰える?」
4.i Rotate
計画に綻びが生じたのは、いつだっただろう。
考えてみれば、根本的に矛盾した計画だったのかもしれない。屋上から見える空は、色調を超越し、終焉の様相を浮かべ始めていた。もはや原型を留めていない金属体が同調して、うねり狂う。
「だから言ったのに」
彼女は、フェンスのその上に立っていた。まるで足が固定されているかのように、微動だにせず立ち続け、金属体を寂しげな目で見降ろしている。ここしばらくはずっとその状態だ。
「まだわからないよ。案外、こいつは予測出来ない――
彼女は、俺の言葉を途中で遮った。
「一番わかってるのはあなたじゃないの? それが負荷に耐えられてないことも。中に、人一人取り込めないことも」
何を言ってもお見通しというわけだ。性質が悪い。
「そうだな。おっしゃる通りだ。でもまあ、止めるわけにもいかないけどな」
「――どうして」
「こいつを止めたら、俺が俺を保てなくなる。どっちにしろ滅ぶなら、こいつと心中しようかなと思って」
金属体が、ぐにゃりと捻れ、千切れる。切り離されたその体は、形を保つことが出来ず、風に吹かれて霧散した。錆びのような独特の臭いが辺りに拡散する。
「それこそ取り返しがつかなくなるじゃない。今ならまだ間に合うよ。それ、崩せば取り戻せるよ」
心なしか、彼女の声が震えているように聞こえる。そうだったとして、そうでないとして、大した差異は無いけれど。
「それは、多分もう俺じゃない。一回転して戻ってきたそれは、もう贋作でしか有り得ない」
「そんなの屁理屈じゃないの」
「ここでは、理論的な理屈は理論足り得ない。俺は、俺を信じることしか出来ないから」
彼女が、心底困ったような顔をする。申し訳ないと思う自分がいる一方で、この状況を心底楽しんでいる自分もいることに気付く。破滅願望みたいなものだろうか。
前者も、後者も、それは自分であり、欠けてはならない。
5 Garden
星の光を受けてうっすらと浮かび上がる、白い頬をなでると、体温が伝わってくる。
丘は今日も変わらない。周りを森に囲まれて、地面には柔らかな草が茂っている。
滅びに向かっていることは、わかっていた。それでいて、逃げたこともわかっていた。それがまた、長くは続かないこともわかっていた。
恐らく、彼女が消えるまで、朝は来ない。
徐々に薄れていく彼女の存在から逆算すれば、こうなることは見えていたはずだった。今、穏やかな寝顔には、以前のような生き生きとした活力は見られない。青白い光と同じ色をした頬に、亜麻色の髪が流れてかかる。
いや、まだ大丈夫だろう。こうして手を握っていれば、もう一度、夜が明けるはずだ。その時こそ、開けばいい。天蓋を破って、重ねればいい。そうと自分に言い聞かせる。
出会ってから、どれほどの時間が経ったのかも覚えていない。帰る約束すら薄れてしまった。
ふっと息をつく。
全てを俯瞰出来た気になっていた俺は、何一つわかってはいなかった。
この世界の細かい理屈を知らない彼女の方が、よほど多くを知っていたのだろう。
「――上手くいかないね」
空に手を伸ばす、彼女の横顔。
「いいよ、ここに二人でいれば。元に戻れなくても、寂しくないから」
そう言って微笑んだのは、丘の夜。
「意味ってみつけるものでしょう? 信じようよ」
背中からかかった、慰めの言葉も。
「私のことはいいよ。また私みたいな人がいたら助けてあげて。――言われなくても――かな。ずっとそうしてきたんだもんね」
果実は落ちた。
予定調和の中で、不可逆の論理が段階を経て進んでいった。彼女の体温が消えた。丘が崩れ始めた。長らく見ていなかった丘の外部に、白い回廊はほとんど残されていなかった。空には、無の原色が渦巻いていた。
手元の草を引き千切る。今から、出来ることはあるだろうか。耳障りな、笑う声。このまま、身を投げ出してしまえば、それで終わりだろう? そうだ。すべて終わりだ。俺には関係のない話だ。
――いや。
見ぬふりをして、弱きを隠していたのは誰だろうか。たとえここが終わっても、現実は終わらない。永遠も終わってくれはしない。
そこにある。身を捧ぐ価値のある信念が、人が。このまま見届けるわけにもいかない。だから、正しいか、間違いか、理屈は端に置いておく。そんな彼岸は超えてやる。
彼女を連れて丘を飛び出した。確実に終わりゆく回廊と空の中で、細胞が滲み出るような感覚を覚える。理屈は死ぬほど単純だ。世界ごと壊して彼女を送り返せばいい。
上空めがけて加速する。飛べるか飛べないかではない。ただ速く鋭く。そこにあるのはわかっている。どれだけの時間をここで費やしてきたか。心臓の位置もわからないなんて嘘だろう。
霞む空へと、自らを消し去る。簡単だ。
いらないものを振り切って、全てを残して。彼方、届くことのない向こう側へと、飛び越えていく。
5.i anti-Garden
「もう、終わらせて」
彼女は、強い口調でそう言った。何かを堪えるようにキッとこちらを見据えるグレーの瞳が、いつにも増して愛らしく感じる。そんな自らの倒錯すら嘲笑する。
「これ以上、犠牲を出すわけにはいかないから。私はそれに直接干渉できないから」
涙声。その眼に浮かんだ水滴が見えた。不意を衝かれ、動揺しかけた心を抑えつける。
それでも、出来ない。
これは、全てを巻き込み滅ぶ。結局、理想は叶わない。物語は終わらない。階段は届かない。憧憬が成就することもない。空を飛ぶことはできない。ましてや自由などというものが、あっていいはずもない。
「この場所は消えることもなく、最期を留め続ける。それでいい。それだけで十分だ」
声が掠れる。喉から出ているのが、自分の声とは思えない。
「――どうしても?」
「俺は、どうすることも出来ないから。金属体に対し俺からの干渉は出来ない。もっと深いところにいる自分が、それをしようとする自分を拒んでいるから」
「そう」
彼女が顔を上げ微笑んだ。つっと頬を伝う筋が見えた。
「どうしようもないなあ」
「――悪い」
もうすぐ、明ける。散る。崩れる、その時が。
屋上から見えるものは、「空」の空だけだった。もう、時はない。
だが、そうはならなかった。「来客」があった。
<intersection>
想うことは、誰にでも出来る。だが大抵、理想と現実は相反する。
精神は、自由ではない。肉体もまた自由でない。だが、自身は自由だ。
世界を一つ、置いておくといい。
どこにも属すことのない、中立した場所に、一つだけ置いておけばいい。
それがどういう形をして、どんな理論を持っているかは、自分の内に留めておく。
それが、芯となってくれる。いざという時に、助けてくれる。そうわかる日が、いつか来るだろう。
そして、少年少女は、道をたどる。途切れることなく、存在もしないそれを。何も見えずとも、確かにそれには空があるのだ。続いている。
6 Doom
空間は、停止した。全ては、ひとつになった。
「止めてくれないかな。これ」
声が屋上を破った。呼応するように少女がフェンスから飛び降りる。少年は、驚く風もなくただ言った。
「無理だ」
「止まらないのか」
「そうだ」
「止まらなければ、どうなるんだ」 来訪者は、傍らの少女を確認した。輪郭は薄く、ぼやけ、いつ消えてもおかしくない。「――どうなるんだ」
「理想とともに、破滅に向かう。これは必然で、俺は、君も、彼女も、去らなければならない」
黙って聞いていた来訪者は、踏み込んで少年を殴った。鐘の音が鳴り響く。
「いい加減にしてくれ。巻き込むな。出来ないことじゃないだろう。お前には――」
「どうしてそう思うんだ」
殴られたことなどなかったかのように、少年は毅然と直立していた。
一歩離れ、踊るように向き合う。
*
一歩引くと、俺は目の前の少年を見据えた。向き合ったその相手は、目をそらさず、こちらに視線を向けることもなかった。
沈黙を破ったのは、突如「りん」と、空から聴こえた音。その音に応えるように、少女が口を開いた。
「――この世界の終りは、必ずしも悪いことじゃないよ」耳に、澄んだ声が心地よく溶け込む。「少なくとも、あなたにとっては」。
「それは……」
「この場所は、言わば張りぼて。消えれば、世界の形が一つ薄れるだけのことなの。彼と私にとっては大きいけれど、あなたにとってもそうとは限らない」
「じゃあ、一体…」
ぐったりした彼女へ向けた視線を察したのだろうか、屋上の少女はこう言った。
「――そっか。よく見て――あなたが、自分が、何を見ているかを見て、そのかたちを見て、わかること。決して悪いようにはならないはず」
言って、屋上の少女は目を空へと逃がした。それから、少年を見つめた。
「……まあ、そういうことだ」
そういった少年の頭を、少女が軽く叩いた。二人から、笑みがこぼれる。
どう云う事だろうか。
感覚質に力を入れる。俺は何を見ているのか。少年、少女、屋上ではなく、また彼女でもない。元の世界は見えず、ならば何が見えるだろう。追憶の中の、丘、回廊、彫像チックな白オブジェ、形を変える空の姿。特にわかることはない。自然ということに目を向け、宇宙と空間に、存在的な事象を追い求めるその姿勢は。何を感じ、考えるのか。
「「それはなに?」」
二人の声が重なった。
まだ足りない、見えない何かを探してはぶつかり、ぶつかっては消えた。見えないそれと自我の境界の不確かさは、俺を落ち着かせ、恐怖を煽っていた。結局は、見つからずともそれは見つかっていたことになったのだろうか。
ふと気付く。それは――見落としていたわけでも、そこにあったわけでもなかったのだ。理想としては不確かで、またその不確かさは自我に似ていた。すっと突き抜ける「空」の形。何も分かってはいない、それ自体が、何かを掴めた気がした。
傍らにいた彼女は、消えていた。それは、ごく自然で、当然の必然だった。
そうか。
「彼女に、よろしく」
そう言って、少年は微かに微笑んだ。
少女の口が、「じゃあね」の形に動くのが、微かに見えた。
実体は消え、視界は無くなった。コンクリートと屋上も、フェンスも空も、白き回廊も青も、赤も光も。全ては、そういったものであり、世界であり、理屈だったのだろうか。
電源の落ちるような音が駆け抜けた。
the Sky
空の美とは、なんだろう。
移り変わる無常さ。揺るがない無情さ。
空は――。
そんなことを思いながら、丘に一人、寝そべる。背中に感じる芝は柔らかく、心地よい温度と春の陽気は、身体を解してくれる。
選択は必然であって、運命論は空に連れ添う。俺は今日もここで時を過ごし、世界はただただ止まり続ける。一度始まった物語は、終わることが出来ない。構造的にも明白なことだ。世界が物語に追いつくまでには物語は進んでいて、物語が世界に追いつくまでには世界は進んでいる。双方向の矛盾関係は、自らを解きほぐし得ない。
それでも、たまには彼女を思い出す。とりあえず、生きていれば、それでいいけれど。そもそも、俺には祈るぐらいしかできないのだから。
彼女と俺の間に存在する「空」が、この世で最も空らしい空であることを、願ってやまない。今日も色を変え、品を変え、質を変え、在るこの空が、在らんことを。
the Utopia
目指した理想は、理想としてあり続けたらしい。
それは、理想であり、それ以上にも以下にもなることはなかったという。
今、二人は溶け合っている。身体が交じり、成分が、自我が混じり合い、ひとつになる。繋がり、溶け合い、愛を確かめ合う。それは既に人の形をしておらず、一体何が宿っているのか定かでない。だが、幸せそうに笑う二人でひとつの自我が幸福を成就しているのは間違いない。
だから、些事なことは気にしないでいようと、僕は思う。結局、そこには空がある。結局、そこには何もない。どちらにせよ、あまり気にすることもないだろう。僕に必要なのは理想なのだ。
目を開くと、強い風の吹く荒野の地平線が、遠くに見える。あれが、世界の果てだ。それは楽園。事実上は存在しないと定義されてなお、心に存在する理想の具現化こそが楽園を形成する。これもまた、興味深くも魅力的な話だと、僕は思う。
幸福の調子はどうだろう。悲哀はどれほどであろう。僕は、半ば親しみすら覚える。
さあ、いこう。全ては、ここにあるのだ。
blue canopy
キキーッ――。
後ろから大きな音がして、驚いた。
ふと気付くと、横断歩道の真ん中で、私は足を止めていた。これでは轢かれても文句は言えない。またやってしまったと運転手さんに謝って、急いで渡り切る。
道の真ん中にいると、空が強く感じられるんだろうか。気付くと、出来もしないその動作を繰り返している。掴んで、歪ませて、それから――。
足を止めてふっと息を吐く。私は、何をしたいのだろう。無意識のうちに、向こうの世界を求めているのだろうか。
今日も、空は随分と調子がよさそうだ。笑いかけると、私はまた歩き出す。
その、深く、遠い、遥かな天蓋へ。