各ノートに分類できないブックマーク集。
リンクを辿らずとも内容がわかるようにすること。
コンピュータやシステムに関する、実用的な基礎知識の解説。
DOMのドキュメント。日本訳もある。
リファクタリング手法で有名な人のブログ記事の、和訳リポジトリがある。
行ってみたい。
歴史的な写真集。
ロゴを簡単に生成できるサイト。
デヴィッド・フィンチャー監督。おもしろそう。
映画。
面白い考察。
GitHubが対応してる言語の色が網羅されている。
abcdw/rde: Tools for managing reproducible development environments. Mirror of https://sr.ht/abcdw/rde/
偉大な仕事をしたいと思っているほとんどの人にとって、正しい戦略はあまり計画を立てないことだと思う。それぞれの段階で、最も興味深く、将来への最良の選択肢を与えてくれそうなことは何でもする。私はこのアプローチを “風上にとどまる “と呼んでいる。偉大な仕事を成し遂げた人の多くは、このようにしてきたようだ。
選択肢はあればあるほど幸せとは限らない。
山形浩生の、WIREDでの記事。
不毛な記事リスト。
裸祭りから見えてくる日本経済の停滞論。面白い。
秋葉原の地図集。
面白い。
リアルな日記。
すごい実績を上げる科学者と、それほどでない科学者の違いはなにか。
人生の指針として保存用にコピーしておく。 What You’ll Wish You’d Known知っておきたかったこと --- What You'll Wish You'd Known Paul Graham, January 2005 Copyright 2005 by Paul Graham. これは、Paul Graham:What You'll Wish You'd Known を、原著者の許可を得て翻訳・公開するものです。 <版権表示> 本和訳テキストの複製、変更、再配布は、この版権表示を残す限り、自由に行って結構です。 (「この版権表示」には上の文も含まれます。すなわち、再配布を禁止してはいけません)。 Copyright 2005 by Paul Graham 原文: http://www.paulgraham.com/hs.html 日本語訳:Shiro Kawai (shiro @ acm.org) <版権表示終り> Paul Graham氏のエッセイをまとめた『ハッカーと画家』の 邦訳版が出版されました。 出版社の案内ページ Amazon.co.jp サポートページ 2005/01/22 翻訳公開 2005/01/24 水落毅様より誤記の訂正を反映 このエッセイは、ある高校の講演依頼を受けて準備したものである。 その高校のお偉いさん方が反対して、結局私の講演はキャンセルされたのだが。 こんど高校で講演することになったと言ったら、ぼくの友達はみんな 興味を持って尋ねてきた。高校生に向かってどんな話をするんだい。 だからぼくは逆に聞き返したんだ。君が高校生の時に、誰かがこのことを 教えていてくれたらなぁ、と思うことってあるかい。 そう聞くと、みんな自分のことを語りはじめたんだけれど、 だいたい誰も同じようなことを思っていたんだ。 そこで今日は、ぼくらがみんな、 誰かに教えてもらいたかったなあと思っていることを話そうと思う。 まず、高校にいるうちは知らなくてもいいことから始めよう。 人生で何を為すかってことだ。大人はいつも、君は人生において 何を成し遂げたいかって聞くものだから、答えを考えておかなくちゃ いけないなんて思っているんじゃないかな。 実は大人がこの質問をするのは、単に会話を始めるためなんだ。 君がどんな人間かを知りたくて、そしてこの質問をすればとにかく 君は何かを話し出すだろう。潮溜りのヤドカリを突っついて どんな反応をするか見てみるのと同じさ。 ぼくが高校生に戻ってこの質問を受けたとしたら、 まず何が可能かを学ぶことだと答えるだろう。 人生を賭ける仕事を選ぶのに急ぐ必要なんてない。 必要なのは、自分は何が好きなのかを発見することだ。 上手くできるようになりたいなら、そのことが好きじゃなくちゃだめだからね。 何が好きかを決めるのなんて一番簡単なことだと思うかもしれない。 でもやってみると、それはとても難しい。理由のひとつは、 仕事で実際にどういうことをしているかっていうはっきりしたイメージを 持つことが、多くの仕事では難しいからだ。例えば医者という仕事の実際は、 テレビで描かれるようなものじゃない。もっとも医者の場合は、病院で ボランティアをすれば本物の医者を見る機会が得られるけれどね [1]。 それどころか、今決して学ぶことが出来ない仕事っていうのもある。 今はまだ誰もやっていないような仕事だ。ぼくがこれまでの10年間でやってきた 仕事のほとんどは、ぼくが高校生の時には存在していなかった。 世界はどんどん変化しているし、変化のスピードも速くなってる。 こんな世界では、決まった計画を持つことはあまりうまくない。 それでも毎年5月になると、全国津々浦々の卒業式で決まりきった演説が 聞かれることになる。テーマはこうだ。「夢をあきらめるな。」 ぼくはその真意を知っているけれど、この表現は良いものじゃない。 だって、早いうちに計画を立ててそれに縛られることを暗示しているからね。 コンピュータの世界では、これに名前までついている。 「早すぎる最適化」というんだ。別の言葉で言い替えると「大失敗」ということだ。 演説ではもっと単純にこう言うべきだろうね。「あきらめるな。」 この言葉の真意は、士気を失うなってことだ。 他の人に出来ることを自分は出来ないと思っちゃだめだ。 それに、自分の可能性を過小評価してもいけない。 すごいことを成し遂げた人を見て、自分とは人種が違うと思うかもしれない。 しかも伝記ではそういう幻想はますます誇張される。伝記を書く人っていうのは 対象となる人物にどうしても畏敬の念を抱くものだし、物語の結末がわかっているから そこに至るまでの人生のできごとをまるで運命に導かれたように、 内なる天才が徐々に現れて来るように描きたくなるんだ。 実際のところ、もし16歳のシェークスピアやアインシュタインが君と同級生 だったとしたら、たぶん彼らは才能を現しているだろうけれど、それ以外は 君の他の友達とさほど変わらないはずだとぼくは思う。 こう考えるのは、おっかないことだ。彼らがぼくらと同じなんだとしたら、 彼らはすごいことを成し遂げるためにものすごい努力をしたってことになる。 そう思うのはこわいから、ぼくらは天才というものを信じたがるんだ。 ぼくらが怠けている言い訳ができるからね。 もし彼らが、魔法のシェークスピア属性やアインシュタイン属性のせいで 素晴らしいことを成し遂げたんだとすれば、ぼくらが同じくらい すごいことをできなくてもぼくらのせいじゃないことになる。 天才なんてない、って言ってるわけじゃないよ。 でも、二つの理論を選ぶときに、一方は怠惰であることを正当化するものだと したら、たぶんもう一方の理論が正しい。 ここまでで、卒業演説の「夢をあきらめるな」から、 「他の誰かに出来たなら、きみにも出来る」が彫り出せた。 でもこれはもっと彫り進めることができる。 生まれついての能力の差というものは多少はある。 過大評価されがちだけど、無くは無い。 例えば背が120cmしかない人がいつかNBAでプレーしたいんだと言った時に、 本当に頑張れば何でも出来るよというのは空々しく聞こえるだろう。 [2] だから、卒業演説はこんなふうになるだろう。 「きみと同じ能力を持つ誰かができることなら、きみにもできる。 そして自分の能力を過小評価しちゃいけない。」 でも、よくあることだけれど、真実に近付こうとするほど 多くの言葉を費さなくちゃならなくなる。 かっこよく決まっている、でも正しくないスローガンを、 泥をかき混ぜるみたいにいじってみたわけだが、 これじゃあまり良いスピーチにはならなさそうだ。 それに、これじゃ何をすべきかってこともよくわからない。 「きみと同じ能力」って? 自分の能力って何だろう? 風上 この問題の解法は、反対側からやってみることだ。 ゴールを最初に決めてそこから逆算するんじゃなく、 より良さそうな状況に向けて少しづつ前に進んでゆくんだ。 成功した人の多くは実際にはそうやって成功したんだ。 卒業演説方式では、きみはまず20年後にどうなりたいかを決めて、 次にそこに至るには今何をすればいい、と考える。 ぼくが提案するのは逆に、将来のことは一切決めないでおいて、 今ある選択肢を見て、良さそうな選択肢がより増えるものを選ぶってことだ。 時間を無駄にしてない限り、実際に何をするかってことはあまり問題じゃない。 面白いと思えて、選択肢が増えるものなら何でもいい。増えた選択肢のどれを 選ぶかなんて後で考えればいいんだ。 たとえば、君が大学の1年生で、数学と経済学のどっちを専攻しようかと 迷っているとする。この場合はね、数学の方が選択肢がひろがるんだ。 数学からはほとんどどの分野へも進むことができる。数学を専攻していたら、 経済学の大学院へ進むのは簡単だろう。でも経済学を専攻して、 数学の大学院へ進むのは難しい。 グライダーを考えてみるといい。グライダーはエンジンを持っていないから、 風上に向かって進もうとすると高度を大きく失うことになる。 着陸に適した地点よりずっと風下に行っちゃったら、打てる手はひどく 限られるものになるだろう。風上にいるべきなんだ。 だからぼくは「夢をあきらめるな」のかわりにこう言おう。「風上をめざせ」。 でも、どうすればいい? 数学が経済学の風上だったとして、 高校生はそんなことを知っていなくちゃならないんだろうか。 もちろん知らないだろう。だから、風上を自分で見つけ出さなくちゃならない。 風上を知る方法のヒントをいくつかあげよう。 賢い人々と、難しい問題を探すことだ。賢い人々は自分達で固まりがちだ。 そういう集団を見つけたら、たぶんそれに参加する価値はある。 但し、そういう集団を見つけることは簡単じゃない。 ごまかしがたくさんあるからだ。 大学生になったばかりのときには、大学のどの学部もだいたい似たように見える。 教授たちはみんな手の届かない知性の壇上にいて、凡人には理解不能な論文を 発表している。でもね、確かに難しい考えがいっぱい詰まっているせいで 理解できないような論文もあるけれど、何か重要なことを言っているように 見せかけるためにわざとわかりにくく書いてある論文だっていっぱいあるんだ。 こんなふうに言うと中傷に聞こえるかもしれないけれど、 これは実験的に確かめられている。有名な『ソーシャル・テクスト』事件だ。 ある物理学者が、人文科学者の論文には、 知的に見えるだけの用語を連ねたでたらめにすぎないものがしばしばあると考えた。 そこで彼はわざと知的に見えるだけの用語を連ねたでたらめ論文を書き、 人文科学の学術誌に投稿したら、その論文が採択されたんだ。 一番良い防御は、常に難しい問題に取り組むようにすることだ。 小説を書くことは難しい。小説を読むことは簡単だ。 難しいということは、不安を感じるということだ。 自分が作っているものが上手くいかないかもしれないとか、 自分が勉強していることが理解出来ないんじゃないかという不安を 感じていないなら、それは難しくない問題だ。 ドキドキするスリルがなくちゃ。 ちょっと厳しすぎる見方じゃないかって思うかい。 不安を感じなくちゃダメだなんて。 そうだね。でもこれはそんなに悪いことじゃない。 不安を乗り越えれば歓喜が待っている。 金メダルを勝ち取った人の顔は幸福に満ちているだろう。 どうしてそんなに幸福なのかわかるかい。安心したからさ。 幸福になる方法がこれしかないと言っているんじゃないよ。 ただ、不安の中にも、そんなに悪くないものがあるって言いたいんだ。 野望 「風上をめざせ」というのは、現実には「難しい問題に取り組め」という ことだった。そして、君は今日からそれを始めることができる。 ぼくも、このことに高校にいる時に気付いていたらなと思うよ。 たいていの人は、自分がやってることを上手くできるようになりたいと 思う。いわゆる現実社会では、この要求はとても強い力なんだ。 しかし高校では、上手くできたからっていいことはあまりない。 やらされていることが偽物だからだ。 ぼくが高校生だった時は、高校生であることが自分の仕事なんだって思ってた。 だから、上手くやれるようになる必要があることっていうのは、 学校でいい成績をあげることだと思ってた。 その時のぼくに、高校生と大人の違いは何かと聞いたなら、 たぶん大人は生活のために稼がなくちゃならない、と答えていただろう。 間違いだ。ほんとうの違いは、大人は自分自身に責任を持つということだ。 生活費を稼ぐのはそのほんの小さな一部にすぎない。 もっと大事なのは、自分自身に対して知的な責任を取ることだ。 もしもう一回高校をやりなおさせられるとしたら、ぼくは学校を 昼間の仕事のようにあしらうだろう。学校でなまけるということじゃないよ。 昼間の仕事のようにやる、っていうのは、それを下手にやるってことじゃない。 その意味は、それによって自分を規定されないようにするってことだ。 たとえば昼間の仕事としてウェイターをやっているミュージシャンは、 自分をウェイターだとは思わないだろう [3]。 同じように、ぼくも、自分を高校生だとは思わないだろうね。 そして昼間の仕事が済めば、本当の仕事を始めるだろう。 高校時代を思い出して一番後悔することは何かって尋ねると、 たいていみんな同じ答えを返す。時間を大いに無駄にしたってね。 君が、今こんなことをしてて将来後悔することになるだろうなと 思っているなら、きっと後悔することになるよ[4]。 これは仕方ないと言う人もいる。高校生はまだ何もきちんと出来ないからってね。 ぼくはそうは思わない。高校生が退屈しているというのがその証拠だ。 8歳の子供は退屈しない。8歳の時には「ぶらつく」かわりに「遊んで」いたはずだ。 やってることは同じなのにね。そして8歳の時、ぼくは退屈することがほとんど 無かった。裏庭と数人の友達がいれば、一日中遊んでいることができた。 今振り返ってみれば、中学高校でこれがつまらなくなった理由は、 ぼくが他の何かをする準備が出来たからだった。 子供であることに飽きてきたんだ。 友達とぶらついちゃだめだなんて言ってないよ。 誰ともつき合わなかったら、仕事しかしないむっつりした小さなロボットに なるしかない。友達と出かけるのは、チョコレートケーキみたいなもんだ。 時々食べるからおいしい。毎食チョコレートケーキを食べていたら、 たとえどんなに好きだとしても、3食目には吐き気がしてくるだろう。 高校で感じる不安感はまさにそれ、精神的な吐き気なんだ [5]。 良い成績を取る以上に何かしなくちゃならないと聞いたら、 『課外活動』のことだと思うかもしれない。 でも君はもう、ほとんどの『課外活動』がどんなにばかげたものかを知っているよね。 チャリティの寄付集めは称賛されるべきことかもしれないが、 それは難しいことじゃない。 何かを成し遂げるってことじゃないからだ。 何かを成し遂げるっていうのは、たとえば上手く文章を書けるようになるとか、 コンピュータをプログラムできるようになるとか、 工業化以前の社会の生活が実際どんなものだったかを知るとか、 モデルを使って人間の顔を書くことを学ぶとか、そういうことだ。 この手の活動は、大学入試願書に一行で書けるようなものにはなかなかならない。 堕落 大学に入ることを人生の目標にするのは危険なことだ。 大学に入るために自分の能力を見せなくちゃならない相手っていうのは、 概して鋭いセンスを欠いている。多くの大学では、 きみの合否を決めるのは教授じゃなくて入学管理者[訳註1]で、 彼らは全然賢くない。知的社会の中では彼らは下士官だ。 きみがどれだけ賢いかなんて彼らに分かりはしない。 私立の進学校が存在することが、その証明になっている。 入試に受かる見込みが上がらないのに多額の金を学校に払う親はほとんどいない。 私立の進学校は、入試に受かるための学校であることを明示している。 でも立ち止まって考えてみたまえ。同じくらいの子供が、 ただ地域の公立高校だけに行くより私立の進学校に行った方が入試に受かりやすくなるってことは、 私立の進学校は入試のプロセスをハックできるってことだ [6]。 君達の多くは、今人生でやるべきことは大学入試に受かるように なることだと思っているだろうね。でもそれは、自分の人生を空っぽの プロセス、それを堕落させるためだけで一つの業界が存在しているほどの プロセスに押し込めていることになる。 シニカルになるのも無理ないよ。 君が感じている不快感は、リアリティTVのプロデューサーや タバコ会社の重役が感じているものと同種のものだ。 君の場合は給料をもらっているわけでもないのにね。 じゃあどうしようかね。 ひとつ、やっちゃいけないのは反抗だ。 ぼくは反抗した。それは間違いだった。 ぼくは、自分達の置かれた状況をはっきり認識していなかったけど、 なにか臭いものを感じていた。だから全部投げ出したんだ。 世界がクソなら、どうなろうと知ったことか、ってね。 教師の一人が試験対策のアンチョコを使っているのを見つけた時に、 ぼくはこれでおあいこだと思った。そんな授業でいい点数をもらって どんな意味があるっていうんだ。 今、振り返ってみれば、ぼくは馬鹿だったと思うよ。 これはまるで、サッカーで相手にファウルされて、おまえ反則しただろ、 ルール違反だ!と怒ってグランドから立ち去るようなものだ。 反則はどうしたって起きる。そうなった時に、冷静さを失わないことが重要だ。 ただゲームを続けるんだ。 きみをこんな状況に押し込めたのは、社会がきみに反則したからだ。 そう、きみが思っているように、授業で習うほとんどのことはクソだ。 そう、きみが思っているように、大学入試は茶番だ。 でも、反則の多くと同じように、悪意があってそうなったわけじゃない [7]。 だから、ただゲームを続けるんだ。 反抗は服従と同じくらいばかげたことだ。 どちらにしてもきみは他人に言われたことに縛られている。 一番良いのは、直角の方向に足を踏み出すことだ。 言われたからただやる、でもなく、言われたからやらない、でもない。 かわりに、学校を昼間の仕事にするんだ。昼間の仕事だと考えれば 学校なんて楽勝だよ。3時には終わるんだし、なんなら自分のやりたいことを 内職しててもいい。 好奇心 じゃあ、本当の仕事は何になるんだろう。 きみがモーツァルトでない限り、やるべきことはまずそれを探し出すことだ。 やりがいのあることって何だろう。すごい発想をする人達はどこにいるだろう。 そして一番重要なこと:自分は何に興味があるだろう。 「適性」という単語はちょっと誤解を招きやすい。 元から備わった性質のように思われるからね。 最も強い種類の適性とは、ある種の問題に対するどん欲な興味だけれど、 そういう興味は後天的に獲得するものが多い。 この考えの変化したものは、現代の文化においては「熱意」という言葉で 呼ばれている。最近、ウェイター募集の広告で「サービスに対する熱意」を 持った人を求めている、というのを見た。 本物の熱意は、ウェイターくらいじゃおさまらないものだ。 それに熱意という単語も良くない。むしろそれは好奇心と呼ぶのがいい。 子供は好奇心旺盛だ。ただ、ぼくがここで言っている好奇心は 子供のとはちょっと違う。子供の好奇心は広くて浅い。 ランダムに色々なことについて「どうして?」と尋ねる。 多くの人は、大人になるまでにこの好奇心が全部渇いてしまう。 これは仕方無いことだ。だって何についても「なぜ?」と尋ねていたら 何もできないからね。でも野心を持つ大人では、 好奇心は全部渇いてしまうのではなく、狭く深くなってゆくんだ。 泥の庭が井戸になるんだ。 好奇心を持っていると、努力が遊びになる。 アインシュタインにとっては、相対性理論は試験のために勉強しなくちゃならない 難しい式の詰まった本ではなかったはずだ。 それは解き明かしたい神秘に見えていただろう。 だからたぶん、彼にとって相対性理論を見出すことは、 今の学生が授業でそれを学ぶことほど、努力とは感じられなかったんじゃないかな。 学校で植え付けられる幻想の一番危険なものは、 素晴らしいことを為すには自分に厳しくなければならないというものだ。 多くの科目はあまりに退屈に教えられるから、 自律心が無いと全部に出席することなんてできやしない。 大学に入ってすぐに、ぼくはヴィドゲンシュタインの言葉を読んで びっくりした。彼は自律心が無くて、たかが一杯のコーヒーであろうと 欲しくなったら我慢することができなかったというんだ。 今、ぼくは素晴らしい仕事をした人を何人も知っているけれど、 みんな同じなんだ。自分を律するということをほとんどしない。 延ばせることはぐずぐず先に延ばすし、興味のないことをやらせようと しても全くの無駄だ。そのうちの一人ときたら、自分の結婚式に 出席してくれた人へのお礼の手紙を出してない。 結婚して4年経つのに。もう一人は、メールボックスに26000通のメールをため込んでる。 自律心が全くのゼロだったら困るよ。走りに行こうかなと思うくらいの 自律心は必要だ。ぼくも時々、走るのが面倒だなあと思うけれど、 一度走り出せばあとは楽しめる。そして何日か走らないと具合が悪くなる。 素晴らしい仕事をする人にとっても同じことなんだ。 仕事をしてないと具合が悪くなるし、仕事を始めるだけの自律心は 持っている。ひとたび仕事を始めれば、興味の方に圧倒されて、 自律心は必要なくなるんだ。 シェークスピアは偉大な文学を産み出そうと歯を食いしばって 勤勉に努力したって思うかい。そんなわけないさ。 きっと楽しんでいたはずだ。だから素晴らしい作品が書けたんだ。 いい仕事をしたいなら、必要なのは見込みのある問題に対する 大きな好奇心だ。アインシュタインにとっての一番大事な瞬間は、 マクスウェルの方程式を眺めて、これはどうなっているんだろうと 自問したところにあった。 生産的な問題に照準を合わせるのには長い時間がかかる。 本当の問題は何なのかを見つけるだけで何年もかかるかもしれないからね。 極端な例を言えば、たとえば数学だ。数学を嫌う人は多い。 でも学校で「数学」の名前でやらされていたことは、 実際に数学者がやっていることとはほど遠いんだ。 偉大な数学者のG. H. ハーディは、高校の時は数学が嫌いだったと 言っている。ただ他の生徒より高い点数をとれたから選択しただけだったと。 後になって、彼は数学が面白いということに気づいた。 質問に正しく答えることのかわりに、自分で問題を見つけるようになってからね。 ぼくの友達の一人は、学校で提出するレポートに苦しんでいると 母親が「それを楽しむ方法を見付ければいいのよ」っていうんだとぼやいていた。 でもそれが、やるべきことなんだ。世界を面白くする問いを見つけ出すんだ。 素晴らしい仕事をした人は、ぼくらと違った世界を見ていたわけじゃない。 ただこの世界の中の、ほんのちょっとした、でも不思議なことがらに気づいただけなんだ。 これは学問だけの話じゃない。「車はどうして贅沢品じゃなきゃいけないんだ? 車が日用品になったらどうなるだろう?」これがヘンリー・フォードの発した 偉大な問いだった。フランツ・ベッケンバウアー[訳註2]の問いはこうだった。 「どうしてみんな自分のポジションに留まってなくちゃならないんだ? ディフェンダーがシュートしたっていいじゃないか。」 現在 偉大な問いを発するのに何年もかかるとしたら、 いま、16歳の君は何をしたらいいだろう。 質問を見つける準備をするんだ。 偉大な問いは突然現れるんじゃない。徐々に頭の中に結晶してくるんだ。 それを結晶させるのは経験だ。だから、偉大な問いを見つけるのに 探し回ってもだめだ。「ぼくができる偉大な発見は何だろう」なんて ぼんやり考えててもだめだ。そんな質問に答えはない。答えがあるなら 既に見つけてるはずだからね。 大きなアイディアが頭に浮かぶようになるには、大きなアイディアを 追い求めるんじゃなく、自分が興味を持つことにたくさんの時間を費すことだ。 そして頭を柔軟に開いておいて、いつでも大きなアイディアが巣を作れるように しておくんだ。アインシュタイン、フォード、ベッケンバウアー、 みんなこのレシピを使ったんだ。彼らはみな、ピアニストがピアノの鍵盤を 知りつくしているのと同じように、自分の仕事を知りつくしていた。 だから何かひっかかりがあれば、すぐにそれに気づけるという自信を持っていたんだ。 今、何を、どうやってすればいいかって? まず興味の持てるプロジェクトを選ぶことだ。ある分量の資料を研究するとか、 何かを作ってみるとか、何かの問題の答えを見つけてみるとか。 ひと月以内で終わらせられるようなプロジェクトがいい。 そして、ちゃんと終わらせられる手段があるようなものにする。 少しは頑張らなくちゃならないようなものがいいけれど、ほんとうに少しだけでいい。 特に最初はね。もし二つのプロジェクトのどっちを選ぶか迷ったら、 面白そうな方を選ぼう。失敗したら、もう一方を始めればいいんだ。 これを繰り返す。そうすると次第に、ちょうど内燃機関みたいに、 このプロセスが自分で走り出すようになる。一つのプロジェクトが次の プロジェクトを生み出すようになるんだ。(そうなるまでには何年もかかるけれどね。) 学校に受けがよさそうというだけでプロジェクトを選ぶのは良くない。 特にそれで制約を受けたり、それが課題のように感じられるならね。 友達を巻き込みたかったら声をかけてもいいだろう。 でもあまりたくさんでない方がいいし、ただ群れたがるだけの人は避けたほうがいい。 友達は士気を保つのにいい (一人だけで始められるベンチャー企業はほとんどない)。 でも秘密にやることにも利点はある。秘密のプロジェクトというだけで 何かわくわくするものがあるし、失敗したって誰にもばれないんだから、 大胆な挑戦ができる。 プロジェクトが君の将来目指すものにあまり関係なさそうだったとしても、 心配することはない。目指すものに到達する道っていうのは、君が思うより ずっと大きく曲がりくねるものなんだ。プロジェクトをやることで、道は伸びてゆくんだ。 一番大事なのは、わくわくして取り組むことだ。そうすれば経験から学ぶことができるからだ。 人に言えないような動機だからって、それを抑えないようにしよう。 欲望の中で最も強いもののひとつは、他人よりうまくやりたいということだ。 ハーディはその気持ちで数学を始めたと言ったが、 それは別に珍しいことじゃないと思う。それを公に認める人は少ないけれど。 他の強い動機としては、知らなくてよいとされていることを知りたいとか、 やっちゃいけないとされていることをやりたいという欲望がある。 大胆な行動をしたいというのも、これに近い欲望だ。 16歳の生徒が小説を書けるなんて多くの人は思っていない。 そういうことに挑戦すれば、どんな結果であっても、プラス点になるはずだ。 本当に大失敗したところで、周囲の期待より悪いってことはないわけだからね [8]。 悪いモデルに気をつけよう。特に怠けることを肯定するようなものにね。 ぼくは高校生の時に、有名作家がやっているような「実存主義的」短篇小説を いくつか書いたことがある。そういうものっていうのは、 読んで面白い小説を書くよりも、たぶん簡単だ。 これは危険信号なんだ。そのことを知っているべきだった。 実際、ぼくが書いたものはどれも退屈だった。 ただ、有名作家みたいに知的で厳粛なものを書くっていうことがすごいことに 思えてただけだったんだ。 今はもう十分に経験を積んだから、そういう有名作家が本当は全然たいしたこと ないってことがわかる。実は有名人のほとんどはそうなんだ。 短期的に見ると、ある仕事の質っていうのは有名度とはほとんど関係がない。 今思えば、ぼくは何かカッコいいことをしたいなんて焦らないで、 ただやりたいことをやってればよかったはずなんだ。 それが実は、カッコいい仕事への道なんだ。 多くのプロジェクトで大事な要素は、もうほとんどそれ自体が一つの プロジェクトになるようなものなんだが、良い本を見つけることだ。 ほとんど全ての教科書はダメだ[9]。 だからたまたま手近にあった本を見て、それがその分野の全てだとは 思わないほうがいい。ごくわずかの良い本を積極的に探さないとならない。 大事なことは、外に出てなにかを為すことだ。黙って座って教えられるのを 待つんじゃなく、自分から踏み出して学ぶんだ。 入試の試験官に自分の人生を合わせる必要なんてない。 自分の好奇心に合わせて人生を作っていけばいい。 野心的な大人はみんなそうしてる。それに、君は待つ必要はないんだ。 大人になるまで待たなくてもいい。だって、ある年齢になったり、 どこかの学校を卒業した時にぱちんと大人になるようなスイッチなんて ないんだからね。自分の人生に責任を持つことを決心したその時に、 君は大人になるんだ。何歳だってできることだ [10]。 ばかげだ話だと思うかい。君はこう思うかもしれないね。 「ぼくは未成年だし、金もないし、親と一緒に住まなくちゃならないし、 一日中大人に言われたことをやらなくちゃならないのに!」ってね。 でもね、大人になって仕事をしていたって、やっぱり似たような 面倒な制限がいろいろあるものさ。でもやる人はちゃんとやり遂げる。 子供であることが制限の多いことだって思ってるなら、子供を持ったら どんなことになるか考えてごらん。 大人と高校生の唯一の違いは、大人はものを成し遂げる必要があることを 知っていて、高校生はそうでないということだ。 多くの人々は、それをだいたい23歳くらいの時に知る。 でも、こっそりいまから始めることを、ぼくは君達に勧めたい。 さあ、始めよう。そうすれば、君達は史上初めて、高校の時に時間を無駄にしなかったと 言える世代になるかもしれない。 原註 [1] ぼくの友人の医者は、 これでも医者の仕事が本当はどんなものかを知ることはできないだろうと言っている。 「どれだけ時間を費して、ほとんど自分の時間を持てない何年もの訓練を受けて、 そしていつだってポケベルで呼び出されることがどんなに煩わしいかなんて、 わかるわけないよ。」 [2] 彼が出来る一番の方法は、 おそらく独裁者になってNBAを脅して自分をプレイさせることだ。 現実的に、それに一番近い立場は労働長官になることだ。 [3] 昼間の仕事というのは、 本当の仕事(バンドで演奏したり、相対性理論を発明したり)に時間を費せるように、 生活費を稼ぐためにやるような仕事のことだ。 高校を昼間の仕事だと思うことは、生徒の何人かにとっては むしろ良い成績をとるのに役立つかもしれない。 授業をゲームだと思えば、内容自体に意味が無くてもがっかりすることはないだろう。 授業がどんなにひどくても、それなりの大学に入るには良い成績は 取っとかないとならない。そのこと自体は、やる価値のあることだ。 近年では、賢い人々の集団を見つけるのに大学は良い場所だからだ。 [4] 二番目に大きな後悔は、重要でないことを気にしすぎていたことだ。 特に、他の人にどう思われているかってことだね。 より正確に言えば、ランダムな人々にどう思われているかを気にするってことだ。 大人だって人にどう思われるかを気にするけれど、誰に思われるかって 点ではより選別していることが多い。 ぼくはだいたい30人くらい、意見を気にする友人がいる。 残りの世界の意見はぼくにとってはどうでもいい。 高校の問題は、まわりに居る人間が、自分の判断ではなくて 年齢と地域がたまたま一緒だったというだけで決まることだ。 [5] 時間を無駄にする 一番の要因は、気を散らすものだ。気を散らすものが無ければ、 自分が何もしていないということにすぐ気づいて、落ち着かなくなるはずだ。 どれだけ余分なことに気を取られてるかを知るには、こういう実験をしてみるといい。 週末にある程度の時間をとって、一人で座ってただ考えるんだ。 ノートを持っていてそれにメモを取るのはいい。けれど、他のものは 全て絶つ。友達も、テレビも、音楽も、電話も、インスタントメッセンジャーも、 メールも、ウェブも、ゲームも、本も、新聞も、雑誌も無しだ。 1時間もすれば、ほとんどの人は何か気を散らすものが欲しくてどうしようもなく なるはずだ。 [6] 私立の進学校が 入学審査官をだますためだけのものだって言うつもりはないよ。 普通は、より良い教育もしてくれる。でもこういう思考実験をしてみたまえ。 私立の進学校が、今と同じ質の教育をしてくれるんだが、そこに行くと ごくわずか (.001) の確率で入試に受かりにくくなるとする。 そしたらどれだけの親が子供を私立の進学校に行かせようとするだろうね。 もちろん、私立の進学校に行った子供はより多くのことを学んだのだから、 より大学の合格者としてふさわしいという議論はできる。 でもそれは経験的には誤りだ。 一番素晴らしい高校だって、そこで教えてくれることなんて 大学で学ぶことに比べたら誤差の範囲だからだ。 公立高校を卒業した子供は入学直後には多少の不利はあるかもしれないが、 2年生になればむしろリードするようになる。 (公立高校の生徒の方が賢いって言っているんじゃなくて、 どんな大学にも公立高校出身の学生がいるってことを言っている。 私立の進学校の方が入試に受かりやすいという前提を認めれば、 公立高校出身で試験に受かった生徒の方が平均的に高い能力を持っているということになる) [7] どうして社会が君に ファウルするんだろう。その主な原因は、無関心だ。 高校を良くするという外圧が全く無いからだ。 航空管制システムは優れたシステムだが、それは そうでなくちゃ飛行機が落ちてしまうからだ。 企業は製品を作らないとライバルに客を取られてしまう。 でも学校がダメになっても飛行機は落ちないし、競争相手もいない。 高校は邪悪なのではなく、ただランダムなんだ。 でもランダムであることは、かなり悪いことだ。 [8] それに、もちろんお金という動機もある。 高校ではこれはあまり関係無いだろう。人が欲しがるようなものを 作れることは少ないからね。でも多くの偉大なものごとというのは、 お金を稼ぐために為された。 サミュエル・ジョンソンは、「金のため以外にものを書くやつなんて馬鹿だ」と 言っている。(多くの人は、彼は誇張してるんだと思いたがるけどね)。 [9] 大学の教科書だってひどいものだ。 大学に入ってみれば、教科書の多くは(いくつかの輝ける例外を除いては) その分野の第一人者が書いたものじゃないことがわかるだろう。 大学の教科書を書くのはあまり面白い仕事じゃないし、 お金のために書かれることが多い。面白くない仕事なのは、 出版社が色々注文をつけて来るからで、自分がやってることを 理解できない人間に注文をつけられるのは最悪なことだからだ。 高校の教科書では状況は もっと悪いらしい。 [10] 教師はいつも「大人のように振る舞いなさい」と君達に言っているかもしれない。 でも、本当に君達がそうすることを望んでいるかは怪しいものだ。 君達は騒がしくてまとまりが無いかもしれないけれど、 大人に比べたらずっと素直だ。 君達が本当に大人のように振る舞い出したら、それは例えば 大人達を君達の体に移し変えたようなものになるだろう。 FBIエージェントやタクシーの運転手や記者達が、 トイレに行くのにいちいち許可を得る必要があって、しかも一度に一人しか いけないなんて聞いてどういう反応をするか想像してごらん。 君達が教えられたことなんてひとつも守られないはずだ。 もし本当に大人達が高校に入ることになったら、最初にやることはきっと 組合を作って校則の改正を教師達と談判することだろうね。 このエッセイの下書きに目を通してくれた、Ingrid Bassett、Trevor Blackwell、 Rich Draves、Dan Giffin、Sarah Harlin、 Jessica Livingston、Jackie McDonough、Robert Morris、Mark Nitzberg、 Lisa Randall、Aaron Swartz、 それに、高校時代について私に語ってくれた他の多くの人々に感謝します。 訳註 訳註1: 入学管理者:原文admission officer。 米国の大学は入試一発ではなく、大学ごとのAdmission Officeが 志願者の高校での活動や成績、統一テストの結果などを勘案して合否を決定する。 訳註2: フランツ・ベッケンバウアー Franz Beckenbauer:サッカー選手、監督。 「リベロ」のポジションを確立した。
ポール・グレアムのエッセイ。翻訳をコピペして、英文部分・訳注を削除。素晴らしい文章なので保存用。
naoya_t memo @deprecated: 2006年01月19日 アーカイブ How to Do What You Love 2006年1月 January 2006
好きこそものの上手なれ。 別に、耳新しい言葉ではない。 我々はこれを4単語に凝縮して言ってきた。「Do what you love(自分が一番好きなことをやりなさい)」と。 だがこれでは言葉足らずで、大事なところがちゃんと伝わらない。 好きなことをやると言っても、それは一筋縄で行くものではない。
そもそも、これは我々の多くが子供時代に学んできたこととは異質の発想だ。 私が子供の頃には、仕事と楽しみは本質的にまったく正反対のことであるかのように思われた。 暮らしの中には2つの状態(state)があった。 時々大人たちに何かさせられる。これが「仕事」。 残りの時間にやりたいことができる。これが「遊び」。 時には大人たちがやれと言ってくるものが楽しかったりもしたし、同様に、時には遊びが楽しくなかったりもした。転んで怪我した時とか。 でも数えるほどしかない異常なケースを除いて、仕事はだいたい「楽しくないもの」とされてきた。
仕事が楽しくないのは偶然だとは思えなかった。 学校は退屈だった。なぜなら大人になって仕事をするための準備の場だからだ。そうほのめかされていた。
子どもの頃の世界は、2つのグループに分断されていた。大人と子供だ。 大人たちは、呪われた種族か何かであるかのように、働かなければならなかった。 子供たちは働かなくてもよかったものの、学校には行かなければならなかった。 学校は仕事の希釈バージョンであり、僕らが本物の仕事に備えるためのものであった。 学校が嫌いだ、と僕ら子供が言えば、大人の仕事はもっとひどいぞ、学校なんか楽勝だと大人たちは口を揃えた。
とりわけ教師たちは、仕事は楽しくないものだ、と皆そう信じて疑っていないようだった。 それは驚くにはあたらない。だってほとんどの教師にとって仕事はつまらなかったのだから。 どうして、ドッジボールをする代わりに僕らは州都を暗記しなくちゃいけなかったのか? 同じ理由で、彼ら教師も、ビーチに横たわる代わりにガキどもを見張らなくちゃいけなかったんだ。やりたいことなどできなかった。
小さな子供たちに彼らのやりたいことをやらせた方がいい、と言っているのではない。 子供たちはいくつかの物事を行うようにできているはずだ。 しかし、子供たちに退屈な仕事をさせるときには、退屈さは仕事に常について回る性質ではないこと、そしてまさに、今つまらない事をやらなければならないのは、後でもっと面白い事をやれるようにするためであることを子供たちに言っておくのが賢いだろう[註1]。
9歳か10歳の頃だったか、父が私にこう言ったことがある。 大きくなったら何でもなりたいものになれるんだよ、それを楽しめるなら、と。 あまりにも変わった話だったから、私はそれを正確に覚えている。 乾いた水を使え、とでも言われたようなものだった。 父の言葉の意味について私もいろいろ考えたが、まさか父が、働くことが文字通り、遊んでいるときに楽しいのと同じ意味で、楽しいことであり得る、と言おうとしていたのだとは思いもしなかった。 そのことを理解するには年月を要した。
仕事 Jobs
高校に上がる頃には、実際の仕事についての展望が見え始めていた。 大人たちが時々自分たちの仕事の話をしに来てくれたり、あるいは大人たちの仕事場を我々が見に行ったりもした。 いつでも、大人たちは自分の仕事を楽しんでいる、ということになっていた。 今思い返してみれば、そのうちの一人は本当に楽しんでいたかもしれないと思う。 自家用ジェットのパイロットをやっていた人だ。 でも、銀行の支店長が自分の仕事を楽しんでいたとは思わない。
大人たちがあたかも自分たちの仕事を楽しんでいるかのように演じていた。主な理由はおそらく上流中産階級の慣習から来るもので、たぶんそうする建前になっていたのだと思う。 自分の仕事を嫌悪していると口にするのは、単に出世に響くというだけではなく、社会的な無作法にあたるのだろう。
どうして自分がしている事を好きなふりをするのが慣例になっているのだろうか。このエッセイの最初の一文(好きこそものの上手なれ)がそれを説明している。 何かをうまくやるためにはその何かのことが好きでないといけないと言うのなら、成功して頂点にいる人たちは皆、自分のしていることが好きだということになる。上流中産階級のこの慣習はそこから来ているのだ。 アメリカじゅうの家という家にはこんな椅子があふれている。 持ち主はそうと知りもしないのだが、これは250年前にフランス国王のためにデザインされた椅子のn次の模造品だ。 ちょうどそれと同じように、仕事についての人々の慣習的な態度は、素晴らしい事を成し遂げた人々がとる態度のn次の模造品なのである。人々はそうと気づいていないのだが。
なんという疎外(alienation)のレシピだろう。 自分が何をやりたいのかを考える年齢に達するまでに、ほとんどの子供は「自分の仕事を愛する」ということについて全く誤った考えをもたされてしまう。 学校は子供たちに、仕事は不愉快な義務であると見なすようにと教育してきた。 職につくということは学業よりさらに骨の折れることだ、と聞かされる。 それなのに大人たちは、自分たちのやっている事が好きだと言い張る。 子供たちが「自分はこの人たちとは違う。自分はこの世界に向いていない」と思ったとしても彼らを責められまい。
実際、子供たちは三つの嘘を聞かされてきた。 学校でこれが仕事だと教わってきた物事は実は本物の仕事ではない。 大人の仕事は実は(必ずしも)学業よりひどいわけではない。 周りの大人の多くが自分の仕事が好きだと言うが、実は彼らは嘘をついていた。
最も危険な嘘つきは、子供たち自身の両親かもしれない。 家族に高い生活水準を享受させるためにつまらない仕事を選ぶと、実際そうしている人は多いのだが、仕事はつまらないものだという考えを子供たちに感染させてしまうおそれがある。 [註2] この場合に限っては、両親はむしろ身勝手であった方が子供にとっては良いのかもしれない。自分の仕事を愛するという手本を示せる両親は、子供にとっては高価な家よりもよほど助けになるだろう。
大学に入った後でようやく、仕事についての観念が、生計を立てるという考えから抜け出すことができた。 その後、重要な問題はどうやってお金を作るかではなく、何に取り組むかということになってきた。 理想的にはこれらは重なり合うものだが、(特許庁におけるアインシュタインのような)いくつかの華々しい境界的事例が、これらが同一の問題ではないことを示している。
仕事の定義はいまや「飢え死にすることを避けながら、世界に対し何らかの独自の貢献を行うこと」になった。 しかしそれまでの長い年月の習慣から、私の仕事観の中に依然として苦痛が大きな割合を占めていた。 仕事は依然として規律を必要としているように思える。 難問解決だけが大きな成果を生み出すが、難問解決が文字通り楽しいなんてことは有り得ないのだから。 それに取り組むために多大な努力を強いられることは間違いないのだ。
何か痛みを伴うはずだと思っていたら、間違ったことをしていたとしてもそれに気づくとは考えにくい。 大学院での私の経験はそういうことに尽きる。
上限と下限 Bounds
好きなことをやれっていうけれど、一体どのくらい「好き」だったらいいのだろうか? それが分からないと、仕事探しをどの辺りでやめたらいいのかも分からない。 (このくらい好きならいいや、と)「好き」の程度を低く見積もりすぎていると、実際多くの人がそうなのだが、仕事探しを早すぎる段階でやめてしまうことになりがちだ。 そして結局両親が選んだ仕事をすることになるか、金や名声を追い求めるか、あるいは惰性で流されるままに何かの仕事についてしまうのがオチだ。
まずは上限。仕事がどのくらい好きなら十分だろうか。 「自分が好きなことをやる」というのは今この瞬間にいちばんやりたいことをするという意味ではない。 アインシュタインにだって多分、コーヒーを一杯飲みたいけれど、先ずは今やってることを済ませてからと自分に言い聞かせたことが何度もあったに違いない。
仕事よりもやりたいことなんて何もない、というくらいに自分の仕事が大好きな人たちの話を読んだとき、私はとまどいを覚えたものだ。 そこまで好きになれるような仕事なんて、どんな種類であれ私にはひとつも思い当たらなかった。 こんな選択肢があったとしよう。 (a)今から1時間何かの仕事をする (b)ローマに瞬間移動して1時間散策する 仕事をする方を自分が選びたくなるような仕事って何かあっただろうか。 正直なところノーだ。
しかし実際はほとんど誰もが、いつ何時であれ、難問に取り組むぐらいならカリブ海を漂流していたり、セックスをしたり、美味しいものを食べたりしていた方がいいと思うことだろう。 「自分が好きなことをする」ということに関する法則は、ある程度の長さの時間を前提としている。 それは「今この瞬間に一番幸せになれることをする」という意味ではなく、 たとえば1週間とか1ヶ月といったような、すこし長めの期間で見て一番幸せになれるようなことをする、という意味だ。
非生産的な快楽には、いずれは飽きてしまうものだ。 しばらくすると、ビーチに横になっているのにも飽きてくる。 幸せなまま居続けたいのなら、何かやらなくてはいけない。
そして下限だが、最低条件として、どんな非生産的な快楽にも負けないほど自分の仕事が好きでないといけない。 「余暇」という概念が何かの間違いではないかと思える程度に、自分のしていることを好きでないといけない。 自分の時間をすべて仕事に使えと言っているのではない。 働いていいのは、くたくたになってあれこれしくじり始める手前までだ。 仕事の後で、何か他のことをやりたくなる。ばかみたいな事でもいい。 でも、このひとときをご褒美だと思ったり、仕事に費やした時間をご褒美のために堪えた苦痛だと思ったりはしない。
最低ラインをそこに設定したのは実際上の理由からだ。 もしあなたの仕事があなたの好きなことでないのなら、億劫で後回しにしがちになるだろう。 仕事するために、自分を無理やり奮い立たせないといけないだろうし、そうしたところで結果は極めて粗末なものになるだろう。
幸せでいるためには、ただ楽しめるだけでなく、すごいと思うような事をしていないといけないと思う。 最後に、「すごい!これってかなりクールだ」と唸る位でないといけない。 何かを作らないといけないという意味ではない。 ハンググライダーの乗り方を覚えたり、外国語を流暢に話せるようになったりするのだって、少なくともしばらくの間は「すごい!これってかなりクールだ」と唸るには十分だろう。 ここでなくてはならないもの、それはテストだ。
基準に達していないと思うもののひとつが、読書だ。 数学や自然科学(hard sciences)分野のいくらかの本を除けば、どれだけちゃんとその本が読めているかを測るテストはない。読書を仕事のように感じることがめったにないのはそのためだ。 生産的だと感じるためには、読んで得たもので何かしなければならない。
私が一番いいと思っているのは、Gino Lee氏が教えてくれたテストだ。 友達を思わず「すごい」と唸らせるようなことをやってみるのだ。 でも、この方法がうまく行くようになるのは22歳を過ぎてからだろう。 というのも、ほとんどの人はそれ以前には、友達を抽出するにしてもサンプル数が十分ではないからだ。
名声の誘惑 Sirens
友達以外の意見をあれこれ気にするのはやめたほうがいいと思う。 名声を気にしてはいけない。名声というのは、世間のその他大勢の意見だ。 自分が一目置くような判断をする人たちから意見がもらえるのに、知りもしない人たちの意見を考慮することが何のプラスになろうか?
そう言うのは簡単だが、実際そうしようと思うと難しい。特に若いときには。 名声は強力な磁石のようなもので、「私はこれが楽しい」という信念さえもねじ曲げる。 名声は、自分が本当に好きなことではなく、こんなことを好きになりたい、という方をさせようとする。
それが、「小説を書いてみよう」みたいなことを人々に思わせているものの正体だ。 みんな小説を読むのが好きだ。 小説を書いている人たちがノーベル賞をもらっている、ということに注目する。 そしてこう考える。小説家になるのに勝ることなんてあるだろうか、と。 しかし、「小説家になる」という構想を好きになるだけでは不十分だ。上手く書けるようになるつもりでいるなら、実際の執筆作業が好きでないといけない。精緻な虚構を組み上げていくのが好きでないといけない。
名声といっても、ひとの思いつきが化石化したものにすぎない。 何であれ、十分なほどにうまくやれば、それが名声のあるものになるのだ。 今日では名声があると我々が思っているものでも、最初は全く名声とは無縁だったという事例はいくらでもある。 すぐに思い浮かぶ例はジャズだ・・・まあ、どんな既存の芸術形態でもほとんどそうなのだが。 だから、ただ好きなことをやろう。名声は放っておけば何とかなる。
名声は、野心家にとっては特に危険なものだ。 野心的な人たちの時間を雑用で浪費させたければ、目の前に名声をぶらさげてやればいい。 それが、人に講演を頼んだり、序文を書いてもらったり、委員を務めてもらったり、部長になってもらったり等々のためのレシピだ。 単に名声を伴う仕事を避けるというだけでも、良い指標になるだろう。 つまらない仕事でなかったら、そもそも名声で箔をつける必要はなかったはずだからね。
同様に、素晴らしいと思う仕事が2つあって、うち1つが名声を伴う仕事だとしたら、選ぶべきはおそらくもう1つの方だ。 何を素晴らしいと思うかは、常にわずかながら名声に影響されてしまうものだ。 だから、2つの仕事がどちらも優劣つけ難いように思えるなら、名声の少ないほうの仕事をおそらくより純粋に素晴らしいと思っているのだ。
人々が道を踏みはずすもう一つの大きな要因は、お金だ。 お金そのものはそれほど危険なものではない。 電話勧誘や売春、人身被害訴訟のように、いい金にはなるが人から蔑まれているような仕事の話には、野心的な人たちは乗らない。 その種の仕事は、結局は「飯にありつければそれでいい」と思っている人たちがやることになる。(ヒント:その仕事をしている人たちがこんな事を言うような分野は避けよ。) 危険なのは、お金が名声と結びついた時だ。例えば顧問弁護士とか、医薬系の仕事のように。 比較的安全で、華やかな未来が約束され、基本的レベルの名声をある程度自動的に伴うような仕事は、こうした仕事の実情をあまり考えたことのないような若者には危険なほどに魅惑的に映るものだ。
人々が自分のしていることが本当に好きかどうかは、 彼らがたとえお金を貰わなかったとしてもそれをやっただろうか、と訊いてみればわかる。 顧問弁護士たちの中に、今やっている仕事を余暇にタダでやれと言われて、しかも生計を立てるために昼間はウェイターの仕事までしながらやる奴がどれだけいるだろうか。
このチェック方法は、二つの学問分野のどちらかを選びたい場合に特に役に立つ。 この観点に立ってみると、分野間の違いは大きいからだ。 優れた数学者の多くは、仮に数学の教授職がなかったとしても数学をやるだろう。 一方で、この対極にある分野においては、教職が得られるかどうかが動機となる。 だれしも広告代理店で働くよりは英文学の教授になった方がいいと思うだろうし、論文を発表するのはこの手の仕事を獲得するための手段なのだ。 数学科がなかったとしても数学をやる人間はいなくならないだろうが、 しかしコンラッドの小説におけるジェンダーとアイデンティティについて何千何万もの退屈な論文が生み出されるのは、英文学専攻の存在、そしてそれがある故の英文学教授の職の存在があるからだ。 こんなことを楽しみのためにやる奴なんていない。
両親の助言は、お金のことばかり言いすぎる傾向がある。 「本人は小説家になりたいと思っているけれど、両親は医者になってほしいと思っている大学生」のほうが 「本人は医者になりたいと思っているけれど、両親は小説家になってほしいと思っている大学生」より沢山いる、といってもいいだろう。 子供たちは、自分たちの親のことを「実利主義的」だと思っている。でも必ずしもそうとは限らない。 親たちは皆、自分の子供のことには自分自身のこと以上に保守的になる傾向があるが。それは単に親として、子供とは報酬以上にリスクを共有しているせいだ。 8歳の息子が高い木に登ると言い出したり、あるいは10代の娘が地元の悪ガキとデートすると言い出したとしても、一緒にワクワクしたりすることはないだろう。 しかし息子が木から落ちたり、娘が妊娠させられたりしたときには、そうした結末に対処せざるを得ない。
規律 Discipline
我々の道を誤らせるようなそんな強い力があるのだから、 やりたい仕事を見つけるのが難しいと我々が思うのも不思議ではない。 ほとんどの人は子供の頃に「仕事=苦痛」という公理を受け入れ絶望してしまった。 そこから抜け出した者たちもほぼ全員が、名声や金に誘惑され座礁してしまった。 それでもやりたい仕事を見つけられた人が一体どのくらいいるだろうか。 数十億人のうち、おそらく二、三十万人といったところだろう。
好きな仕事を見つけるのは難しい。 なし得た人間がそんなに少ないのだから、難しいに違いない。 だから、この作業を甘く見てはいけないし、まだ見つけられない人も、気を落とさないでほしい。 実際、現状に不満であることを認めているなら、まだそれを認められずにいる多くの人たちより一歩先んじている。 あなたにとって軽蔑したくなるような仕事を楽しめと言ってくるような同僚に囲まれているなら、同僚たちは自分に嘘をついている公算が大だ。絶対にとは言わないが、でもおそらくは。
素晴らしい仕事をするのに、規律は人が思うほど必要なものではない。 素晴らしい仕事をするには、それをするのに無理をする必要がないほどに好きなことを何か見つければいいからだ。 だが好きな仕事を探すには、通常規律が必要だ。 12歳の時に自分のしたいことがわかっていて、レールが敷いてあるかのようにそれに沿って進んでいくだけ、という幸運な人もいるが、そのようなケースは例外だ。 素晴らしい仕事をする人々は大抵、ピンポン球が描く軌跡のようなキャリアの持ち主だ。 学校でAを勉強し、中退してBの職につき、趣味でCを始めてみたらそれで大いに有名になった、といった具合だ。
転職は時として行動力の証であり、時として怠惰の証である。 あなたは落伍しようとしているのだろうか、それとも新たな道を果敢に切り開こうとしているのか? 自分ではわからないということも多い。 後に素晴らしい仕事をする人たちの多くは、自分にぴったりの仕事を探しながらも、最初の頃は期待はずれな仕事もいくつか経験しているようだ。
何か、自分を正直に保つために使える方法はないだろうか。 1つは、いまやっていることがなんであれ、良い仕事をするように努めることだ。たとえその仕事が好きではなくても。 そうすれば少なくとも、仕事に対する不満を怠惰の言い訳に使うこともなくなるだろう。 それに何より、物事をより良く行う習慣がつくことだろう。
もう1つは、常に何かを産み出すということだ。 例えば、小説家になるつもりでいて、今はとりあえず食べてゆくための仕事をこなしているとする。さて、何か産み出しているかい?たとえヘたくそでも、何ページづつか、小説を書いているかい? 何かを産み出しさえすれば、いつか書こうと思っている偉大な小説の幻影にただ酔いしれているばかりではなくなるだろう。自分が実際に書いている明らかに駄作だと分かる代物によって、その展望は打ち砕かれることになるのだ。
「常に何かを生み出す」というのは、好きな仕事を探すための経験則でもある。 そう心に決めると、一般にやるべきだとされていると自分で思い込んでいる物事から自然に離れて、本当に好きなことの方に引き寄せられてゆくのだ。 「常に何かを産み出す」ことが、雨水が重力を頼りに屋根にあいた穴を見い出す如く、ライフワークを見つけてくれることだろう。
もちろん、自分のやりたい仕事を見つけたからといって、実際にその仕事に就けるとは限らない。それは別の話だ。 あなたが野心家なら、この二つは分けて考えるべきだ。 「自分が何をやりたいのか」という観念を「自分にできそうなこと」に汚染されないためには意識的に努力する必要がある。
この二つを分けておくのは痛みを伴う。なぜならこの二つの間にギャップがあることを認めるのはつらいことだからだ。 だから多くの人は、予防線を張るべく自分の期待値をあらかじめ引き下げておく。 例えば、誰でもいいから街を行く人々に「レオナルド(ダ・ビンチ)のような絵が描けるようになりたいか」と尋ねたら、ほとんどの人は、「そんなの私には無理ですよ」とかそれに類する答えを返してくるだろう。 これは事実というよりはむしろ、本人の意思表明である。私はやってみようとは思わない、という意味だ。 というのも、実際には、もし街を歩いている人の中から無作為に1人選んで連れてきて、何とかしてその後20年間絵を一生懸命描いてもらえたなら、その人は驚くほど上達するだろうからだ。 しかしそれには大いなる精神的な努力が必要とされるだろう。何年もの間、毎日毎日自分の失敗に目を向けることを意味するからだ。 だからこそ、ひとは自分を守るために、「自分には無理だ」と言うのだ。
これに関連して、よく耳にする言葉がもうひとつある。「みんながみんな自分ののやりたい仕事ができるわけじゃない」すなわち、誰かが嫌な仕事をしなければならないのだ、と。 果たしてそうなのか?どうやったらそんな仕事をさせられると言うのか? アメリカでは、人に嫌な仕事を強制する唯一の方法は徴兵制で、それだってかれこれ30年間発動されたことがない。 我々にできるのはせいぜい、人々に金と名声を与えて嫌な仕事をするようにけしかけることぐらいだ。
それでも誰もやりたがらないような仕事があるなら、社会はそういった仕事なしでやって行くしかないということではないだろうか。 召使という業種で起こったのはまさにそういうことだ。 何千年もの間、それは「誰かがしなければならない」仕事として誰もが認める実例だった。 しかし20世紀半ばに召使は豊かな国々では事実上消滅し、金持ちはもう召使なしでやって行くしかなくなった。
だから、「誰かがしなければならない」ような仕事がこの世にあるうちは、あらゆる仕事について「この仕事は間違っている」と誰かが言う可能性があるだろう。 不快な仕事のほとんどは自動化されるか、進んでやる者が誰もいなければ誰もやらないままになるかのいずれかだろう。
二つの道 Two Routes
一方、「みんながみんな自分ののやりたい仕事ができるわけじゃない」という言い分には、別の含みがある。そしてそれもまた、全くもっともな事なのだ。 人は食べていかなければならない。そして、好きな仕事でお金をもらうのは難しい。 これらを達成する道は2つある。
オーガニックルート:地位が上がるにつれ、好きではない仕事を減らしながら好きな仕事の割合を徐々に増やしていく。
二足のわらじルート:好きなことをするのに必要なお金を稼ぐために、好きではないことをする。
オーガニックルートの方がより一般的だ。良い仕事をする人たちは自ずとこの道を辿っていく。 建築家は若いうちは、自分が取れる仕事なら何だって取らなければならない。 でも、そうした仕事うまくこなしていくうちに少しずつ、プロジェクトを取捨選択できる地位に昇っていく。 このルートの不利な点は、進みが遅く、かつ不確実であることだ。 偉くなって終身在職権を手に入れたとしても、本物の自由を享受できるとはいえない。
二足のわらじルートには、いわゆる「昼間の仕事」すなわち毎日決まった時間に働いてお金を稼ぎ、余った時間で好きな事をやるという方法から、もう二度とお金のために働かなくてもよくなるまで何かの仕事をする方法に至るまで、お金のために一度に働く期間の長さに応じた幅広い変種がある。
二足のわらじルートはオーガニックルートほど一般的ではない。それは、慎重な選択が求められるからだ。それに、伴う危険も大きい。 ひとは年を取れば取るほどお金がかかるようになる傾向があるので、お金のための仕事では予定よりも長く働くことになりがちだ。 さらにまた悪いことに、どんな仕事であれ、あなたがする仕事はあなたを変えてゆく。 退屈な仕事をしすぎれば脳が錆びついてくる。 いちばん稼げる仕事がいちばん危険だ。というのも、そんな仕事には全精力を注がなければならないからだ。
二足のわらじルートの有利なところは、障害を飛び越えさせてくれる点だ。 あらゆる仕事が大地に平坦に広がっているわけではない。異業種間を仕切る壁の高さもまちまちだ。 [註7] 自分の仕事のうち好きな仕事が占める割合を最大化していく過程で、建築から商品デザインに移ることはあるかもしれないが、音楽業界に行くことはおそらくないだろう。 何かひとつの仕事でお金をつくってから別の事をする、というのであればもう少し選択の自由がある。
どちらのルートを選んだらよいだろうか。 それは、あなたがやりたいことにどのくらい自信をもっているか、注文を取るのがどのくらい上手か、どれだけのリスクに耐えられるか、あなたがやりたいことに誰かが(あなたが死ぬまで)お金を払ってくれる勝算があるか、といったことにかかっている。 もし 働きたい分野全般に自信があり、かつ人がお金を払ってくれそうなことであれば、多分オーガニックルートを選んだほうがいい。 しかし、もし自分が何をやりたいのか分かっていなかったり、あるいは注文をとるのが好きではないなら、二足のわらじルートを選ぶのもいいかもしれない。そのリスクに耐えられるのならば。
あまり性急に決めてしまわないように。 早いうちからやりたいことがわかっている子たちは格好良く見える。まるで他の子たちより先に算数の問題が解けた子のようだ。 彼らの手元には確かに答えがある。でもそれは間違いである公算が大だ。
医者としてとてもうまく行っている友人がいるのだが、彼女は自分の職にいつも不平不満をこぼしている。 医学部を受けようとしている人たちに助言を求められる度に、彼らを揺さぶって「やめておきなさい!」と怒鳴りつけたくなる。(決してそうすることはないのだが) どのように彼女はこんな苦境に陥っていったのだろうか。 高校時代には既に、彼女は医者になりたいと思っていた。前途に立ちふさがるあらゆる障害を乗り越えるだけの野心も決意も備わっていた。不幸なことに「医者という仕事が好きではない」ことも障害のひとつに含まれていた。
いまの彼女の人生は、女子高生が選んだ人生だ。
あなたが若い頃には、各々の選択に必要な情報はすべて、それが必要になる前に手に入るような印象を持っていただろう。 だが、仕事については決してそうはいかない。 何の仕事をするか決める時には、信じられないほど不完全な情報を頼りに決断しなければならない。 大学の中でさえ、様々な職種がそれぞれどんなものなのか、ほとんど情報が得られない。 運が良ければ2、3社のインターンシップに参加できるかもしれないが、全ての職でインターンシップが用意されているわけではないし、提供されていたとしても、学べるのは高々バットボーイになることで野球のやり方を学べる程度のことだ。
人生設計においては、その他の多くの物事の設計と同様、柔軟な媒体を使えばより良い結果が得られる。 だから、自分が何をしたいのかに確信をもっているのでなければ、一番のお薦めは、オーガニックにも二足のわらじにも転べるような種類の仕事を選ぶことだろう。 私がコンピュータ・サイエンスを選んだ理由の一部もおそらくそんなことだ。 教授にもなれるし、お金もたくさん稼げるし、ほかの数多の仕事に姿を変えることもできる。
初めのうちは、幅広く色々なことを経験させてくれる仕事を探すのも賢い選択だ。 そうすれば色々な仕事が実際どんな感じなのかをより短時間で学ぶことができる。 逆に、二足のわらじルートでも極端なものは危険だ。自分が好きなことについて学べることがあまりにも少ないからだ。 お金が十分たまったら仕事をやめて小説を書こう、と思いながら十年間証券投資家の仕事に精を出していたとしよう。 いざ仕事をやめた後で、小説を書くのなんて実は好きでも何でもなかったことに気づいてしまったとしたらどうする?
ほとんどの人はこう言うだろう。「任せろ、百万ドルくれたら、やりたいことを見つけてみせる」と。 でもそれは見かけより難しいものだ。 さまざまな制約は、人生に輪郭を与えてくれる。 そうした制約を外してしまうと、ほとんどの人は自分が何をしたらいいか全くわからなくなってしまう。 宝くじを当てた人や、遺産を手に入れた人がどうなるか見てほしい。 誰もが、自分が欲しいのは経済的な保障だと思っているけれど、いちばん幸せなのは経済的な保障を手に入れた人たちではなく、自分がやっている仕事が好きな人たちだ。 だから、(経済的)自由を約束するばかりで、それで一体何をしたらいいのか知る事もないようなプランは、見た目ほどいいものではないかもしれない。
どちらのルートを選ぶにせよ、それなりの苦労が伴うことは覚悟しておこう。 好きな仕事を見つけるのは本当に難しい。ほとんど誰もが失敗している。 仮に見つけられたとしても、30、40代そこらで好きなことを自由にやれるようになるなんてことは滅多にない。 でも、今この目的地が視野に入っているなら、達成できる見込みは高い。 仕事を好きになっていいと分かれば、もうゴールは目の前だ。 そして、どの仕事が好きなのか分かっているなら、もうあなたはゴールしたも同然だ。
なぜと云うと文学史で云う何々主義と云うのは理論から出たのでなくして、個人の作物から出たのであって、その作物の大体を鷲攫わしづかみにして、そうしてもっとも顕著に見える特性だけを目懸めがけて名を下したまでであります。
つまりは幾通りとなく成立し得べき歴史のうちで実際に発展した歴史だけに重きを置いて、しかもほとんど偶然に出現した人間の作そのものを全まったき成体で取り崩くずす事のできないものと見傚みなした上でその特色の著るしきものだけに何主義の名をもってする弊であります。
どうやって書くか、公演するか。
Paul Grahamのエッセイ。
LISPプログラマのPaul Grahamのエッセイ。有名なプログラマーのプロフィールページ。
時雨堂経営者のブログ。
Russ Coxのブログ。
リポジトリ芸。
すごい人。ソフトウェア研究者・技術者。深さ、広さがすごい。
伝わるポートフォリオ。
すごいゲーム開発者。 roguelike tutorialの作者。
Javascriptのすごい人。
すごいエンジニアの人。 未経験時のログが残っていて、そんな時期が存在していたことを知れる。成長速度えぐい。
エンジニア。
アウトカムを急がない。理解するのには時間がかかる。 アウトプットを考えがちだが、それでコピペしてたら意味がない。
- ブログ書くのが重要
ただ単にいろんなパターンを試して正解を探しても、何も学べていない。 関連技術を理解して、自分のコントロール化に置くことが重要。
4時間ほど予定をブロックしているという。 その時間は返信もせず、自分の仕事に熱中する。
Purcel(パッケージシステムMelpaを作った人)のブログ。
OSSのすごい人。幅広い。長崎でALTをしてたことがあるらしく、ちょっと親近感。
かっこいい自己紹介ページ。
若かりし頃のブログ。
セキュリティで有名な人。
偉大なプログラマーへのQ&A集。
複数のパッケージ開発者。 https://endlessparentheses.com/about.html
Emacsの有名人のブログ。
いい感じの自己紹介。Emacs。
Scalaのすごい人。
数多くのコンピュータに関するビデオがあるチャンネル。さすがAT&T。
ドメイン島巡り – 世界のドメイン1,000種類以上を取り扱うインターリンクが、「.cc」「.tv」「.sx」等、南太平洋やカリブ海などの「島のドメイン」約50種類に焦点をあて、実際にその島々に行き、島の魅力をレポートします。
どうかしている熱意を示してくれる例。
翻訳文書集。
Zettelkastenの実践メモ。マウスの移動量の単位。
Matz回。
わかりやすく、面白い。
インセンティブから見た普及しない考察。面白い。
ポッドキャスト。
ランダムさをどうやって生み出しているか。面白い。
Linuxなどは、キーボードのタイピングの間隔やマウスの速度など、予測の難しい外部イベントの正確なタイミングを測って、そのランダムさをカーネル内に溜め込んでいる。その変数は/dev/randomから読むことができる。
ランダムなイベントはそれほど多くないので、ずっと/dev/randomを読んでいるとランダムさが枯渇してそれ以上読めなくなってしまう。例えばsshの暗号鍵を生成しているときに「マウスを動かすと鍵生成が早く終わります」というメッセージが表示されるのはこのためだ。
メモリのエラー率は意外に高いという話。面白い。
- Ruby Kaigi参加者の3分の1はデベロッパー(テクノロジーそのものを作る人)。ユーザカンファレンスの率が他に比べて低い。
自作コンパイラを作る話。
自作言語ではなく、標準化されている既存の言語を作ると手抜きができない。むしろ勉強になる。
面白いアイデア。
依存ライブラリの意図的な削除で起きた不具合。
多くのライブラリに影響を与えた不具合の元になったコード。遊ばれまくっている。
面白い。絵文字のせいで、英語圏の人々も4byte文字列について考えないといけなった。解決と同時に漢字の表示についても解決していった。絵文字が追加されたのは2010年からだったのか。
開発手法のエッセイ集。Webアクセスの美しい可視化ツール。
D&Dスタイルの武器。
[[https://qiita.com/yagince/items/546d86588aaa3fdb3c94][[Rust] proc_macro入門 CustomDeriveを書いてみる - Qiita]]
proc_macroの使い方。
パッケージの作り方。
プロトコルの種類。
宣言的な作図ツール。グルーピングができる分mermaidより使いやすい気がする。
デザインパターンのサイト。
Simple と Easy は異なる。混ぜてはいけない。 Easy: 手数の少なさを重視。覚えることが増え、特定の状況に強いが他には弱い設計になる。 Simple: 覚えることの少なさを重視。手数が増えたり、自分で組み合わせたりしなければならない。
ロードバランサーの詳細。
【第二版】ファイアウォールやネットワークにおける上り、下り、イングレス(Ingress)、エグレス(Egress)、インバウンド(Inbound)、アウトバウンド(Outbound)の違い - stamemo
ECSの概要。
実践してきた方法。 メーラーデーモン、asyncなどの現実世界の問題を解くことで上達していったという。プログラミング関係の書籍。
オライリーの料理本。なぜ。
Googleのスタイルガイド。
指向の違い。
優良IT企業のリスト。あらゆる分野に浸透している。
サンプルコードの書き方。
各速度の表。
言語のバージョンアップは大変な仕事。どうやって進めるか。
日付のフォーマット文字列を生成するツール。
非常にわかりやすいレンダリングの解説。
オープンライセンスで公開されているもの。
PDFの仕様書。
オープンな行政。
Hyrumの法則。
DIYでボーイング747のコックピットを作る人…。
公共交通における、精神衛生上いい話。
やり方がある。
新幹線の回数券はマネーロンダリングに使われるらしい。
面白い。
アメリカ海軍のマニュアル集。
すごい。
面白い。
「自動車に乗って移動する生活、歩かない生活。これは街への愛着を失わせ、無関心を常態化させてしまいます。名古屋市民は戦後の道路計画の時代からずっと街から排除されていたと言えます。散歩をしたり、街角にたたずんだり、公園にたむろするという習慣が、ずっと以前に失われていました。都市空間が暴走する自動車と騒音と排気ガスに占拠されたからです。だから名古屋市民は、お昼を食べるにしても、公園のベンチで弁当を広げるよりも自動車の運転席で弁当を食べるほうを好むのです」
興味深い。
ちょっとした公園、消滅。
昔の折口駅の写真がある。
鍋石の記述がある回。
阿久根市の文化財ガイドマップ。
阿久根市の概要。
公開されている薩摩街道マップ。
街道歩き。
1700年代の地図。
九州の古い地図。
全国図。
九州南部の古い地図。
橋の地図。
76年前、自宅前の線路の列車を米軍機が襲った。怖いもの見たさで外に出た。右足に強い痛み。大量の血の中から見つけた銃弾は今も持っている〈証言 語り継ぐ戦争〉 | 鹿児島のニュース | 南日本新聞 | 373news.com
折口の、鉄道車両に対する空襲。
証言を裏付ける写真が発見される。川の流路が現在と違うことがわかる。
面白い。
鹿児島のめがね橋一覧。
折口川に関する記述がある。
阿久根市折口と野田町の一部の折口川をはさむ水田地帯302haを対象に昭和26年~昭和31年にかけて実施した用水改良事業である。折口川は、路線・断面共の不規則で又河口に設けられた樋門(3連)が不備であるため、排水が悪い。そのため本事業においては幹線・排水路及び樋門を改修すると共に取水堰の改修を行った。
- USA-R50-2-17 1948年
- USA-M798-A-39 1948年
- 1:50,000 chikeizu | 地形図
- 平成14年度公共用水域水質測定結果 付表4
- 河川水質ワースト
- 鹿児島県工業試験場(1962/第9号) 大隅中部・垂水地域および阿久根・出水地域の地下水の水質について
- 水質調査
- 折口川、およびその周りの深井戸は各成分が多く水質が悪い。これは折口川周辺の温泉水の混入によるものと思われる。
串木野の配線。
最適なネットワーク構築の研究。
開発生産性の部署。興味がある。
縦書きスタイル。
Whole Earth Catalogを公開している。
価値観のズレを楽しむゲーム。
シンプルで奥深いボードゲーム。
おもしろ動画。
艦船の位置情報。
バイオハザードのロゴが作られた経緯。面白い。
ボウリングの理論。面白い。
テキストベースのマルチプレイヤーゲームの説明。
部屋を設計できるWebアプリ。
極小のネジを作る動画。
質問項目。
機材が入らなかった珍騒動。
たまに家具屋で見る美しい椅子。
画家、裸の大将。
異色の経緯。
親からは「どうせすぐに打ち切られる」というようなことを言われました。 でも連載が決まってすらいない僕としては「現状は、打ち切られる以下の状態なんだよな……」と。
とはいえ、連載が始まらないと本当にヤバイなぁと感じて、死にものぐるいで頑張りました。 毎週のようにネームを持ち込んで。そこから5カ月で連載が本決まりになりました。 「ああ、命がつながったなぁ」と安堵したのを今でも覚えています。
僕自身はこんな感じですが『いじめるヤバイ奴』は真面目に描いています。 自分のせいでもあるんですが、そんな追い込まれた経験が作品にも生かせているんじゃないかとは思っています。
ネットに関係するすべての商売でいえる。
最後の敗因は「ナンバーワンになる意識が低かった」という点だ。ネットショップ運営の初心者にありがちな考え方に「そこまで高い売り上げは望んでいない」というものがある。「月に100万円売れればいいんです」「たくさん売れなくてもいいんです」などと、「高い売り上げを望まない=頑張らなくてもいい」という図式になってしまい、中途半端なお金と時間の投資で終わらせて、ネットショップの運営に失敗するケースは少なくない。
ネットショップは優れた1店舗にお客が集中するため、売れるネットショップと売れないネットショップの差が極端に分かれやすい。実店舗であれば「近い」「店の雰囲気が良い」と言う理由で、二番手、三番手のお店にもお客が流れて来る。しかしネットショップは「価格」「ページ」「露出」の3拍子がそろった店にお客が集中するため、ナンバーワンの店舗以外にはお客が流れにくくなる。
Eコマース業界が1%の成功店舗と99%の負け組に分かれてしまう要因は、この「全力でやらなければまったく売れない」というネットショップ運営の難しさにある。
面白いスポット紹介。
ゲームボーイの描画システムの解説。
日本文化の説明。
外国語を学ぶ方法。
- コンテンツに集中する
- コミュニケーションの道具として使う
- 体で学ぶ
- リラックス、好奇心。曖昧さに耐えられる環境
- ボディランゲージから得る
- たくさん聞く
- 組み合わせる
- 表情から学ぶ。発音とか
HTTP Statusの猫画像。
カンファレンスのルール。
タクシー幾何学。
時計の詳細な仕組み。精巧なアニメーションで理解しやすい。
スターデューバレーの開発者の話。5年間1人で開発して完成させた…。 ディアブロ3の話はすごいな。最初だめだったゲームが、数年かけてその評価を覆す。類語辞典。
すごい雰囲気のいいGIFを集めたページ。
なしを選択できるので安くできる。
解説。
東電の報告書。
面白いサイトの紹介。
色々な仕組みを教える教育サイト。
ランダムな場所のストリートビューを表示する。
毎日NASAの写真を公開している。
世界中のWEBカメラを閲覧できるサイト。
さまざまな分野の興味深いFAQが掲載されてる謎のサイト。
時間はお金のようなもの、という例えがわかりやすい。
1ページにまとまったUnicode絵文字一覧。
画像をアスキーアートに変換する。
CCの音源。
おもしろい風刺画サイト。
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科学論文の読み方。
画像から背景を消すツール。
戦車の百科事典。おもしろい。
面白い。特に 警察庁長官狙撃事件
の銃の観点から見た分析が興味深い。
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日本の古地図。
こういうの大好き。
逆境でも才能によって抜け出せる人もいる。
Bootstrapの色一覧。
- 25, 30, 40, 43, 58, 60, 73, 80, 86, 90, 96, 101, 122, 144, 158, 177, 200, 202, 215, 230, 244, 250, 260
- 6回辿る
- 任意の人を2人選んで関係を6回辿ればつながる、というがこれは一様でない。一部の人が大きなつながりを持っていてハブになっている。コネクター。その人を元に様々な人がつながりを生んでいるような。
- 知人
- ほとんどの人にとって、この種の知人関係養成(バースデーカードを送ることとか)にはシャイになる。誰でもやっぱりそうだよな。connectorの一人は、そういうゆるいつながりを維持することに長けていた。
- 仕事を得るうえでは、弱いつながりの方が役に立つ。多くの人が紹介で職を得る。友人よりも知人の方が多い。定義的に知人の方が外部の世界の人々であるからだ。
- セサミストリート
- セサミストリートはもっとも教育的な番組の1つである。どうやって子供に興味をもってもらうか。世界に名前付けをしている段階の子供にとって、1つの名前が異なる2つの物を指すことがあることを理解させるのは難しい。
- 1980年代のニューヨークの犯罪
- 犯罪は病気のように伝染する。割れ窓。犯罪を防ぐためには巨大な問題を解決する必要はない。落書きなど小さな犯罪を防げばいい。
- 人間は行動を考えるとき、文脈より人物の性格や備わったものを重視しやすい(FAE)。実際は文脈のほうが大きな影響をおよぼしている。たとえば兄弟構成。よく言われる特質(年上の子は保守的、とか)は、家族外では当てはまらないことが多い。
- 家族より、近所やコミュニティの方が影響が大きい。歩いていてすれ違う人も、どう行動するかを決定するのに大きな影響をもたらす。
- 組織は小さいほうがいい。大きいとコミュニケーションコストが大きくなり、コントロールが難しくなるから。
- 1960年のミクロネシアでは自殺はほとんど知られてなかったが、一人の少年の自殺をきっかけに毎年増加していった。率はアメリカの7倍にまで達した。自殺は伝染する。
- ヘビースモーカーの典型的な特徴。当てはまる人が多いな。
- 外向的
- 不安症、神経症
- 飲酒、コーヒーの量が非喫煙者に比べて多い
おもしろ言葉ネタ。
マクドナルドはやめようとなって対案が出てくる現象。
他人事ではない話。
怖い話。
栗原:あのね、人は死んだらいなくなるんです。それはもう、あっけないくらい。灰だけ残して消えてしまう。
でも、残された人たちは、それに耐えられないんですよ。だから、死んだ人の『居場所』を作る。 それがお墓です。
GoogleがYouTubeの本番環境の品質検証で使っていた動画チャンネル。
手書きで記号検索する。
絵文字を探すときに便利。
<2021-09-26 Sun> org-protocolを設定したのではてブを使う理由はない。